大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

ついに発見、明治19年式戸籍

 


私が調査を始めて早3年が経とうとしていますが、ずっと探していた大田区が廃棄した当家の明治の戸籍を発見する事が出来ました!

 

曽祖父菊蔵の妹が海苔問屋に嫁いでおり、聞き込み調査をしていく事で初めは知らないとの話でしたが、改めて単語を出して確認した所、こちらの孫娘の方が平成初めにルーツ調べをされて、それぞれの戸籍を無いというまで辿っていき、それを保管してあるとの話を伺いました。

 

平成初期であれば、これは確実にうちの明治の戸籍を出されているなと確信が持てました。お店の為、後日確認して連絡してくれるとの事で楽しみに待つことにしました。

 

 

 

しかしながら、1月以上経つも連絡が無かった為訪問しに行きました。

そしたら「忙しくて連絡を先延ばしにしちゃった。」との事で、まとめていた資料を準備して頂いておりそちらを楽しみに見させて頂きました。

 

すると…

 

細長い縦書きの戸籍が!

 

 

これぞずっと探し求めていた大田区では取得不可能明治19年式戸籍です!

 

 

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遂にずっと謎であった元次郎さんの証明となる欄を見る事が出来ました。

前戸主の欄を見て分かる様に前の名は丹右ヱ門で、隠居した後に当家初代となる粂次郎さんが丹右ヱ門襲名した日も記載されていました。

 

しかしながら、元次郎さんの欄に明治3年に他界した妻の名と誰の何番目の子なのか記載がありません。丹右ヱ門が名跡(代々継がれる名)であるので、元次郎さんが長男であると仮定すると、

戸主粂次郎さんからみた続柄なので「祖父丹右ヱ門長男」として記載されているはずでした。

 

何より妻と父の名が判明しなかったのは残念です。

しかしながら、前までの情報では元次郎さんの誕生元号は不詳との事でしたが、しっかりと文政元年と記載されています!

西暦だと1818年ですが、かの有名な測量士伊能忠敬が73歳で亡くなった年です。

 

そして誕生元号が分かった為、没日から引くと享年を知る事が出来ます。

 

 

83歳で他界されている事が分かりました。

 

直系の先祖では2代目助次郎さんと同じ年で一番長生きされています。

 

 

これを考えたら元次郎さんの父は

30歳までの出産時 寛政(1789年~1801年)生まれで、

30代での出産時  天明(1781年~1789年)となるのでかなり遡れた事になります。

 

 

 

 

しかしながら、こちらの明治19年式戸籍は明治25年に編成されているのでその前の元次郎(丹右ヱ門)さんが戸主の戸籍があったはずです。

 

こちらには江戸時代生まれの粂次郎さんの兄弟・妻も記載されていたと思われるので、一切知らない名がかなり見られたと思います。

上記の戸籍も江戸時代からの転籍前である番地になる為、別世界になります。

 

こちらの戸籍は年代的に昭和後期には廃棄されていると思うので探し出すのは絶望的です。

 

さらに古文書は戦火で焼失している為調査はここまでとなります。

 

 

しかし、大田区史の活字化された古文書に1つのみ大森村のものを見つけました。

 

武蔵野国荏原郡六郷領西大森村検地水帳・元禄十年十二月のものです。

 

 

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1600年後期の為、明治維新後の東京府とは違い現埼玉・千葉の土地等も武蔵野国の一部です。

 

その中で当家の丹右ヱ門の名が記載されていました。

※複数ありましたが画像は一部のものです。

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江戸時代は幕府により移動を禁じられており、丹右ヱ門の名も他では確認できない為、これは確実に先祖であります。

 

ここから、少なくとも1600年代からの名跡だと分かりました。

江戸時代の記録はこちらだけになりますが、ここまで遡れたので

 良しとします。

いよいよ出来る事が限られてきたので、抜けが無いか資料を確認していこうと思います。

 

 

 

 

東友会

あっという間にひと月経ってしまいました。

前回お話した東友会についてです。

 

海苔漁業が盛んであった時代、海苔養殖者の地元有力者の若手育成を目的として創立されたのが東友会です。

 

結成日は大正10年10月  会員数48名によるもの。

 

 

勿論、結成時は明治生まれの方々が主です。現在はその子孫(子・孫)の方々が跡を継いでいます。

現会員数は18名。60~80代の方々が主で、この中で本格的に漁師としての経験がある方は概ね80代の方です。

 

この中で、昔の貴重なお話を聞けることは非常に為になります。

なにせ今後も存在する大森の最後の海苔漁師の方で、

今では全く姿を変えた大森のかつての姿(消えた文化)を知る最後の人達です。

 

そう考えると、出来るだけ話を伺って次世代に残していく必要があります。あと数年、せめて10年早く行動していれば更に詳しいベテランの方々が生存されていた事を思うとこれは時間との課題になっていくと思います。

 

 

そんな中で、父が出席されていた東友会。次世代となる私が引き継いで参加してきました。場所は平和島の天仲という明治30(1897)年創業の天ぷら屋さんです。

 

今ではこの辺りは埋め立てられていますが、当時は海岸が目の前であったそうです。

 

コース料理で刺身・天ぷら・酢の物が出てきます。

どれも絶品であり、数人の芸者さんを呼んでお酒を注いで貰ったり、舞を見たり中々できない体験を出来ました。

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私自身、グラス一杯で顔がじんじんして全身赤くなる程に酒に弱いため3杯程度飲みましたが、これでものみすぎたと思うくらいでした。

最後に紹介の機会を頂き15分ほど皆さんの前でお話しさせて貰いましたが立ち続けていたら酒の影響もあり貧血になってしまいました。

目の前が白くなってきても、頭の中では言いたい言葉が次々と出てきます。そこから座ってのお話でしたが、話終えた後に喜んで頂けたので何よりでした。



今年で創立97年。100周年まであと僅かです。

因みに当家の三代目当主、四代目当主が3、6代目の会長を歴任しております。

 

地元の会でここまで続いているのは大変貴重かつ他にはありません。

しかしながら7、80の方を筆頭に60代以上の方が主な中、その子孫の方々は引き継いでおらず、会員は減少傾向であと何年続けられるかは分かりません。

この貴重な地元の歴史のある会、自分に何が出来るか、考えていこうと思っています。

 

 

因みに更新頻度が激減した件についてですが、連日の調査中立て続けに否定的な言動を取られた事によるモチベーションの低下が原因です。


ルーツを探ることに関して誰しもが興味を持ったり協力してくれる訳ではありません。


頭では分かっていましたが、極端にそのような言動を取られてしまっては大きなモヤモヤしたものが中々とれませんでした。


しかしながら朗報もあります。

この中で、遂に探し求めていた大田区が廃棄した当家の明治の戸籍を発見する事が出ました。曾祖父妹の嫁ぎ先のお宅で昔出されたものを保管されており、感激しました。

海苔舟

久々の投稿になりました。
今回は海苔舟についてお話します。

海苔漁業は「べかぶね」という小舟に乗り、手作業で行います。海苔の収穫期は11月~4月程。早朝の寒い時に一斉に船が沖に向かって進んでいきます。
暖房器具が当たり前の様にある現代、昔は極寒の中の作業が現代以上にいかに過酷だったかが想像できます。
毎日朝起きて7時前には雨戸を開けたりする時に「海苔漁家だった頃はこの寒い中、海に行って冷たい海に手を入れて作業なんて自分にはできるかな・・。」と思ったり当たり前の様に食べている海苔が過酷な作業での賜物と考えると、知らなかった時よりありがたみを感じて食べれるようになったり、今は失われたものの先祖代々伝統の海苔漁業を必死にやってきたのだと誇りに思ったりしています。



漁の際、離れた場所ではエンジンつきの大きな海苔船(親船)に小舟を何隻も乗せて沖まで向い、そこで作業をします。
因みにべかぶねより少し大きな機材等を乗せるちゅうべかというものもあります。




当家では聞き込みや資料を調べ、知る限り3隻の舟を造っています。



名は蓬莱丸(ほうらいまる)。



蓬莱とは古代中国で不老不死の仙人が住む山を指すそうで、竹取物語かぐや姫が求婚者たちへの無理難題の一つで「蓬莱の珠の枝」というものを求めました。



船の写真ですが、
現存しているのは僅か数枚。それも、一番最後のものです。
唯一、昭和の初めに造ったと思われる蓬莱丸の大きな写真が一枚だけありました。

それがこちらです。


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右から2番目が高祖父の助次郎さん。
写真中央辺りの子供が大正15年生まれの私の祖父、昇です。大体5歳くらいとして、撮影年数は推定昭和3~5年と思われます。そして場所は羽田沖で撮影されています。


船が完成し、初めて海に浮かべることを船おろし(進水式)といい、親戚・近所の方・漁師仲間が集ります。始めに御神酒(おみき:祝いの酒)を船に供えて神主が祝詞(のりと:神に拳上する言葉)を上げる。そして港から船をだし、船にのっている人が陸にいる人達に向かって餅や菓子を投げて大いに祝います。これには子供たちも大喜びされました。

こちらの船が知る限り一番古い海苔船です。
郷土資料で当家取材による聞き書きがあり、そちらを参考にすると、大正末期にゴセキ型(幅一丈5尺)の大船を造り焼玉(エンジン)を付けたと書かれていました。恐らくこちらの前の船かと思われます。


写真は進水式で羽田沖に出たもので、聞き込みによると大阪のお得意さんが丁度こちらに来ていた時に、当家の進水式があるので急いで乗られたなんて話がありました。昔の写真のエピソードは聞かなければ分からないので貴重な話です。


少し脱線して…
写真はものによって面白いエピソードがあります。細かいことは忘れましたが、幕末に武士達がフランスに訪問する際にエジプトに寄りスフィンクスの前で写真を撮りました。

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この写真ですが、実は面白いことにスフィンクスのあご下に一人よじ登ってた人がいましたが、撮る瞬間にずり落ちてしまい写真には写らなかったというエピソードです。

ただ見ただけでは分からない、本当に一枚の写真には色んな物語がつまっているんだなと思います。





話は戻り、2隻目は写真は現存しておりませんが「大森の船大工」の本を参考に見つけました。地元の船大工によりつくられた造船記録によるもので、親族も合わせて当家の2隻の海苔船の記録も残っていました。


滑川舟エ門方:昭和25年5月7日【蓬莱丸】5尺7寸と記載されていますが、

崩し字や略字で記載してあった為か、丹が舟と間違えて記載されていました。


そして、最後の船。
滑川菊蔵:昭和34年9月14日【船名不明】(7尺)造船

曽祖父名義で船名の記載はありませんでしたが、これは祖父が造船した第一蓬莱丸のことであると思います。

そしてその限られた写真、進水式の写真です。


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まさか、このあと数年で海苔漁業が終焉を迎えるとは思いたくは無かったでしょう。祖父は海苔漁業に対して積極的で仕事が非常に早かったと聞きます。

終焉した後はしばらく釣り船をされていたそうですが、結果的には船は売ってしまったとの話です。


そして海苔道具に関して。当家は大々的に海苔漁業を営んでいた為大量の海苔道具がありました。小さい時に郷土資料館や学校に寄付したと聞いた気がした為、探し続けていましたが先日叔父(当時幼少期)に話を聞いたところ海苔終焉後毎日のように燃やされ、また風呂の燃料にしていたとの事実を聞き、なんてもったいない事を…とがっかりしました。

一大産業が終えてしまい場所だけとる無用の長物となってしまったのでしょう。今では、何故かかろうじて船の錆びたイカリだけが屋根の下に転がっています。




さて、以上になりますが地元海苔漁家の有力者、若手育成の為に結成された東友会という団体があります。
こちらは歴史のある会で、最後の海苔漁家の集まりである貴重な団体です。父の跡を継ぎ、会の一員として本日新年会に出席してきました。会員としては初めてですが、神社や青年会の活動を通し皆知っている方ですが改めて挨拶させて頂きました。それは次の記事にてお話していきます。

浦守稲荷青年会:除夜祭

私が所属する青年会を紹介する前に活動の記事になってしまいました。

我が家の氏神は浦守稲荷神社。
こちらを中心に地元の活動をしていくのが浦守稲荷青年会です。自分は高校を卒業したと同時に父の命で入会しました。

そして大先輩方にお世話になり早9年が経ちます。



本日、大晦日には除夜祭といい初詣の来客者用の甘酒・味噌汁接待や案内、整列等を行っていきます。

現在甘酒を65度越えないようにかき回し中です。


まだまだ明け方まで頑張ります!

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災害・死因

体調不良が続きしばらくぶりになりました。
今回は家の災害の歴史と、先祖の死因についてです。


自宅の過去帳を眺めていると、とある日に2名が亡くなっている事が分かりました。一人は子供、一人は掛人(かかりゅうと:居候、未婚の兄弟)と記載されています。

さて、ここで考えられるのは何かしら事故があったかまたは災害があったのかと頭をよぎります。その没年月日は、



1856(安政3)年8月25日

調べてみたところ、なんとヒットしました。
それは



安政の台風及び
安政3年の大風災
というもの。

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当時の瓦版

江戸付近に強い勢力の台風が通過した事により、江戸の街一帯が暴風・高潮の被害を受け、その暴風雨に加えて火災が発生し被害拡大。
この台風の死者は資料によるものの、推定10万人とされてる日本の風水害としては過去最悪の被害でした。
もしかしたら、この災害の犠牲になった可能性が高いと思われます。


そしてその前年にはかの有名な安政の大地震がありました。
都内の方で過去帖を見ると、この日にご先祖が記載されているかもしれません。

1855(安政2)年10月2日に江戸を中心として発生した安政江戸地震は最も被害が大きく、後の幕府の調査によると死者は約10000人に及んだと記載されています。これは直下型の大地震で、安政に多発した震度6を超える地震のうちの一つです。

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今後心配されている南海トラフ地震も、最後はこの時に起きています。




因みに安政2年と言うと、当家の丹右ヱ門が6歳の時です。大正9年71歳で亡くなったので、それまでに親族にこの地震の話をしててもおかしくありません。結論、伝わってはいませんが仮に伝承されていたら歴史的大地震経験談として貴重なものになったと思います。







次いで1923(大正12)年9月1日南関東震源とした直下型の大地震

関東大震災です。
 

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関東大震災写真集より




残念ながら当家では全く聞くことが出来ませんでした。しかし、以前もお話しした曾祖父末の妹の娘さんが「母から聞いてます。」との事で伺った処、家の裏に地割れが出来て高祖父助次郎・曾祖父菊蔵がそこに挟まってしまい、余震の揺れで穴が開き抜け出すことが出来たというお話でした。
調べたところ、マグニチュード7クラスの余震が6回も続いたそうです。
本当に恐ろしいです。



当家の話から脱線しますが、関東大震災により今の自分が存在しています。それは、母方の曾祖父に関係する話です。
母方の祖父米吉さんは80歳を超えてからパソコンで自分の人生での経験談家系図等を小説の様な形で作り、自分の子供たちに送付していました。自分がその存在を知り、目にしてから1年は経っていないほど。米吉さんは既に7年前に亡くなられています。

内容で自分が特に見いったのはご自身のルーツを探った話、お父さんが関東大震災で悲痛な思いをされた話、ご自身が戦争にいかれた事と戦時中の家族の生活です。
今回は、その中の関東大震災に着目していきます。


始まりは長男で一族の長であった米吉さん。実は戸籍上四男で、長女の妹さんが三女であり知らない兄が三人と姉が二人がいるとの始まりでした。
実は上の兄弟の方々と曾祖父妻の方は関東大震災の犠牲になっておりました。
米吉さんの母親は後妻になりますが、父親は震災前は一つの家族を持っていたのです。


父親の名は政助さん。
一人は幼くして亡くなった為、6人家族でした。
しかし、関東大震災で一家はメチャクチャになります。
その当時の悲劇の様子を書かれている為、以下原文のままに紹介致します。


『風と炎に追われ吾妻橋際までにげてきたが、保険証を家に取りに戻った。「お前たちはここで待っていろよ。」といってあったが、元に戻ったときにはもう居なかったという。後にこの母と子が川に飛び込んだのを近所の森田氏は見たという。(母の話)父は幾日も妻や子を探したが見つからず精魂つきて水沢さん(親族宅)にいった。乞食のような父を見て水沢氏は「やア乞食が来た。」と囃したのでカッとし水沢氏の頭を掴み天水桶に突っ込んだという。』

その後から政助さんは酒を覚えたそうです。
住む場所は崩壊し、一度に5人の家族と別れる事となり心中はかり知れません。
当時の画像検索すると、その恐ろしさに身がすくみます。地震だけではなく、火事による火災旋風でまるで空襲にあったようです。

いずれ南海トラフの大地震が来るとなると本当に想像したくありません。


そして1年後の大正13年に私の母方の曾祖母と結婚し、その翌年に米吉さんは産まれました。

時は流れ母、そして私と繋がっています。
枝分かれしていく系図を考えたら、一つの家庭の崩壊の後の米吉さんから今がある訳ですが、もし助かっていたら米吉さんからの母、自分達が存在しないということになります。

その一瞬で未来に産まれていく子孫が全く違ってくると考えると非常に大きなものなのだと感じます。



因みに政助さんは戸籍上、生まれたことも亡くなったことも分かりません。生まれの神田は関東大震災で焼失し、住んでいた浅草は東京大空襲で全ての記録を失いました。名前が辛うじて記載されているのは米吉さん戸主の再製された戸籍の前戸主と続柄の欄のみです。



話は戻り、記憶も新しい2011(平成23)年3月11日

東日本大震災
当時は20歳で春休みを迎えていました。ベッドの上でゲームをしていたら揺れが始まり、次第に大きくなり木造の家が激しく揺れて自分はいち早く外に出ました。丁度大学で学んだ環境学地震授業でP波とS波というものを思い出します。
P波=縦揺れの初期振動
S波=横揺れの本震(震度数)

大田区は震度5強でした。この時より、本の少し傾いたのか網戸が途中から引っかかってしまい、はまらなくなってしまいました。
自宅は高祖父助次郎さんが「末代まで大丈夫なように。」と大正末期、実際に練馬・小杉等の山にあるケヤキの木を厳選して丈夫な物を製材にかけて柱にし、土台から天井までを貫く通し柱にしました。現在戦災も避けられ築90年を迎えます。
因みにこの辺りで最古の自宅は築130年の平林さん宅。かやぶき屋根をトタンで保護し、今では貴重な中二階の造りが目に入ります。



以前、テレビで100歳超えの方が東日本大震災関東大震災に比べ「(東日本の)揺れはこんなもんじゃなかった。(関東の時は)この家がこーんな揺れた!」と話されていました。いかに直下型地震が激しいか分かります。
しかし、大正12年の大震災と東日本のを比べられるとは驚きです。


震災については以上ですが、自宅の歴史として当時どの様な事があったかを記録に残したり、語り継いでいく事は先祖を身近に感じたり災害の恐ろしさを改めて知れる大事な事だと思いました。





次いで死因についてです。
系図を作る上で、何時何が原因で幾つで亡くなったのかを聞き込みで調査します。

結果、直系は高祖父まで分かりました。

高祖父:地域の祭りの帰宅の際に自転車でぶつけられた交通事故が原因。84歳
曽祖父:幽門癌。72歳
祖 父:脳幹出血。65歳
 父 :喉頭癌。64歳

傍系(兄弟)では高祖父の兄弟は2名のみ、曽祖父の兄弟からは全員知る事が出来ました。
一族の享年を知っていくにつれて滑川家、特に当家は短命です。
妻を抜き22人中、90超えは1名・80超えは3名で、60~70代が殆どでした。

ぎんさんの娘さん達や、他の長寿の方の一族を見るとやはり長生きです。
自分は、生活習慣は勿論関係あると思いますが、ほぼ遺伝子で決まっているのではないかと思います。

余談で、ギネス記録のフランスのジャンヌ・カルマンさんは人類唯一の大還暦を迎えた122歳。117歳まで喫煙し、その後は「火を付けさせるのがかわいそうだから」と介助者を気遣っての禁煙でした。存命中、孫も亡くなったりしているので子孫からしたら親も祖父母も亡くなっているのに先祖が元気に生き続けているという不思議な状態でした。


話は戻り、
滑川家で唯一の90超えの方は曽祖父の弟さんで糖尿病の方でした。豆中心の食生活を最後まで送られていたそうです。
他、一人は喘息で祖父を除いたら後は皆癌でした。


父は喉頭癌ですが、酒はほぼ飲まずに喫煙は一切していないのに癌になりました。調べてみた所こんな統計があります。

喫煙との関連がもっとも高いのは喉頭癌であり、男性で95.8%の高値を示しています。これは禁煙することにより喉頭癌の発生をゼロに近づけることが出来ることを示しています。

5%以下の確率で患ったわけです。正直癌は治る事もあるので大丈夫であろうと考えていましたが、抗癌剤が体に合わなければ上手くはいきません。これは、何とも奇遇な話ですが曽祖父の相続の際に担当であった司法書士の先生が同じ喉頭癌を患っているという事を父の闘病中に知りました。その時85歳です。お互いに声帯切除手術を行っていまして、父はユアトーンという振動する機械を喉に当てて機械音声で話しますが、先生はフリーハンズという手術を受け普通に話すように喋っていました。ユアトーンだとどうしても片手が使えなくなってしまう為、ゆくゆくはこの手術を受ける予定ではありましたが体調が悪化した為しませんでした。
因みに先生は父と同じ抗がん剤が体に合った為軽快して7年程経っています。


この時は自分は面識が無かったですが、父が亡くなった時に連絡のやり取りをしている事を思い出し、パソコンのアドレスから連絡し先生とコンタクトを取りました。父と同じ病気であり、穏やかでユーモラスなので非常に親近感がある方でした。年齢関係なく、パソコン・スマホを使いこなして自分の1日何歩歩いたか等データでまとめていたり、ラインをしていたりととてもお元気です。


しかしながら、数か月に1回食事や自宅に来て頂いたりしましたが残念な事に今年亡くなったとのお知らせを受けました。父の丁度1年後です。
1年と短い間でしたが、貴重な縁でとても良い時間を過ごさせて頂きました。


人生、何時病気になるか亡くなるかは分かりません。一期一会でも、ちょっとした事でも良い縁となる事もあります。
そして、改めて健康のありがたみを感じます。

今回を振り返り、一つの人生最後まで濃く生きていきたいなと感じました。




次回は最後に、大晦日の活動を更新していきます。

海苔のふるさと館・消えゆく老舗

本日は気になるものを確かめると同時に、海苔のふるさと館の職員の方に自分が調べた海苔漁家の歴史をお話に向かいました。 



東京モノレール昭和島付近のふるさと浜辺公園。京浜急行大森町からでも徒歩20分もしないで行けます。(遠くからくる人はこちらからの方が古い商店が並ぶ美原通りを通っていくためおススメ)2008年に出来た公園で、埋め立てでの人工でありますが、砂浜があり都内では初めての区立海浜公園です。

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去年から10月にしながわおおた水辺の観光フェスが開催されました。こちらの公園ではドローン体験・ビーチスポーツ体験にライブスタジオ・キッチンカーが揃い、モノレール天空橋駅からは浜辺公園までの船が出たりイルミネーションだったりで、最後には花火2000発でしめるという大々的な祭りでした。東睦会が神輿を新調されたという事でお披露目も見れたそうです。
因みに今年は花火は難しく光と噴水のショーでした。空港も近く、高さ制限があったりと色々問題があるそうで・・・
観たかったのですが、自分は今年も合わせて仕事の都合で行けず残念です。
青年会でお話した時に、主催側の区議会員の塩野目さんは「リゾート地の様にしたい。」と仰っていました。

以前は売店のみでしたが、今ではレストハウスが出来たりと、どんどん憩いの場として魅力が上がっていると感じます。



そして道なりに進むと、海苔のふるさと館が見えます。丁度10周年です。


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中に入ると立派な木造の海苔船が目に入ります。


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昭和30年代造船の最後の大森の海苔船、伊藤丸(全長13m)です。

海苔漁業が終わった後は釣り船として活躍していたそうです。

昔は何百隻と存在していたであろう海苔船が今ではこの1隻のみ。かつて一大文化を誇った海苔漁業でしたが、保存しなければ消滅してしまうという例の一つですね。しかし、立派です。勿論重要有形民俗文化財に指定されています。

当家では調査した限り3隻造船していますが、それは別の機会でお話致します。



中に入り、館内のライブラリーにある資料をいくつか確認していた時に職員の方から声を掛けられました。以前、こちらで地元の昭和の写真展をしていた時に担当をされていた三好様でした。せっかくなので、時間に余裕が出来たら作成した資料をお見せしたい事を伝え、その後にノートパソコンにて説明させて頂きました。結果、喜ばれて何よりでした。その後も分厚い史料を1時間ほど眺め、お昼が過ぎていた為空腹と眠気で参ったので、読み終えた後そそくさと挨拶し館を後にします。



帰りは老舗寿司屋で食べていこうと思い美原通りに向かいます。
美原通りは旧東海道。かつて江戸と京都までを繋いでいた参勤交代の大名行列にも使われた重要な街道。
昭和2年に拡幅改修、第一京浜国道となりました。



そんな美原通りにあるのは以前紹介した餅甚さんです。

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道なりに進み小さい橋を渡り、道が二手に分かれ左に曲がります。
こちらは旧羽田道、するがや通りと言います。


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更に左に曲がります。

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するがやと言うのは、かつて駿河屋という旅籠があったことが由来だそうです。


そして目的の日の出寿司に到着。
祖父の法事、父の一周忌で使わせて頂きました、江戸前寿司の老舗です。


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カウンターで気のいい板長さん。鉄火丼を注文し、昔の話をしながら出来るのを待ちます。
値段は中々ですが、他では楽しめない味です。今回は奮発しました。

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お勧めのネギトロ巻きもとても美味で、老舗江戸前の極上の一品です。

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付け合わせは、秋田名物いぶりがっこ。この間秋田旅行に行った為分かりました。この事から旅行の話になり、いくつかの御勧めの場所を教えて頂きました。是非とも行きたいので、チェックします。話は弾み、あっという間に2時間近く経ってしまいました。前回も同様に滞在し、これが地元老舗の醍醐味なんだなと感じます。




そして帰宅しました。

自分は出来る限り昔ながらの地元の店で食べれる時に食べたいと思っています。
理由は最近閉店されるお店が多い為です。それに、高齢夫婦で営んでいるお店が多く見られます。



これも別記事で紹介しますが、親子で楽しめる貴重な大正から続く甘味処が今年閉店してしまいました。シャッターが閉じ、その後も惜しむ声とお礼の張り紙が複数貼られています。他、来客時に出前で使用していた天丼の店も閉店しました。




そして、ここ日の出寿司も来年2月に閉店してしまいます。たまにカウンターで板長と地元の事を話しながら食べるのがとても楽しいので残念に思います。残り2か月ちょっと。長く営業した店を畳むまでの短い貴重な時間、行けるだけ行きたいと思います。
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