大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

水止めの舞

14日の日曜日は東京都の無形民俗文化財に指定されている厳正寺の水止舞を観に行きました。

 

水止舞は約680年の歴史を持ち、起源は鎌倉時代の元亨元(1321)年にまで遡ります。

当時、武蔵国(現:関東)が大干ばつ被害に遭った時に住職がワラで竜神を作り7日間祈祷し雨を降らせました。

しかし、その2年後に長雨が続き田畑が流出してしまった為、農民は以前の感謝を忘れて「あの時の雨ごいのせいだ」と住職を責めます。

その為住職は獅子の頭を3つ作り『水止(しし)』と名付けて農民に被せて太鼓を叩きながら舞わせ、ほら貝を吹いて龍神に雨を止ませる様に祈祷したところ雨は止み、農民は感謝して今後天変地異の際はお寺に「水止舞」を捧げるようになったといいます。

 

 

必用時には頼り、問題があれば責め立てる。何とも勝手な話ですね。

 

因みにこちらの舞は保存会もあり現在まで続いていますが、かつては厳正寺舞というものがありました。こちらは第二次世界大戦により、踊り手が戦死された為途絶えてしまいまったそうで何とも残念です。

 

 

 

開催は13:00~15:00までの時間です。去年も今年も夜勤明けで観る事が出来ましたが、どちらも仮眠している間にいつも開始時間を過ぎてしまい、いつも途中からの鑑賞です。


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始まりは、ワラで渦巻き状に編んだ雌雄の龍神2体の中に一人ずつ入り、ほら貝を吹きながら水をかけられ道をゴロゴロ転がされます。

 

そしてお寺に入り舞台に上がって舞が始まりますが、私はいつもこの舞からしか見たことがありません。当日は雨であった為にお寺の正面の魚屋から始まったそうですが、いつもは150m程離れた大森東中の正面から始まります。

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到着してからは、先にお墓参りを済ませて鑑賞しました。

観に来ている方は数人外国人がいたり、休日という事もあり結構な人数でした。伝統行事の為、地元テレビ局も来ています。

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舞台前側には太鼓を鳴らし足踏みをしている獅子3人、華籠という赤い被り物をしている左右の2人がさらら(楽器のギロの様なもので、さららは稲穂が擦れる音で五穀豊穣の意味)というものを擦らせ、舞台後側の方が吹く笛の音と共に水止めの舞いは行われます。


語り手はいつも調査でお世話になっている長老がされています。10代から携わっている為70年近く続けられています。いつまでも元気でいて頂きたいですね。

 

終わったあとは舞台前に関係者が集まり写真を撮ります。

そのあとに獅子の頭を希望者に被ってもらい写真撮影も出来ます。

これには「頭痛が治る」という言い伝えがあります。


小雨が続いていましたが、舞が終わる頃には丁度良く雨が止んでいました。

思わず信じたくなるようなタイミングです。

 

終わったあとは長老に挨拶し、寺を後にしました。

 

そして夕方には神社へ、先月の京都旅行の報告会である鎮座式に参加して来ました。この時に耳にしましたが、今月末にある羽田神社祭礼では見事な大神輿が出る年だ思ってましたが、こちらは出ずに50年振りに牛舎が出るという事でした。

大神輿を楽しみにしていたので残念ですが、貴重な牛舎を見て来たいと思っています。

この日、神輿は担がない予定です。理由は『ヨコタ担ぎ』という船が大波で揺れている姿を表わす独特の担ぎ方で、一定の時間左右に大きく揺らし、担ぎ手はジャンプし続けるという中々きつい担ぎ方だからです。数年前、初めての参加で足を壊し回復まで大分時間が掛かったもので…。

 

因みに浦守稲荷神社の担ぎ方は知らない人でも神輿と言えば想像がつく『江戸前神輿』です。

ワッショイ、ワッショイやエイサ、エイサの掛け声で練り歩くというもの。私はこちらが一番好きです。


信州善光寺

5月には腰を壊して行けなかった善光寺へ再チャレンジしました。
善光寺といえば、誰もが人生に一度は行くべき所と言われています。
今回も石碑調査に向かいました。


東京からかがやきで長野駅へ出発し、

約二時間で到着。

丁度昼に着くようにしたので、駅内で昼食にします。


明治亭というカツ屋が気になったので、ここに決めました。信州鹿と信州豚のソースカツ丼です。
鹿肉はさっぱりしていて美味でした。

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外に出ると駅がの綺麗な外装が目に入ります。

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駅から善光寺へは2㎞あり、バスで片道150円で行けますが道中楽しみたいため歩いて向かいます。 



道中寄り道をして、とある寺に凄いものがありました。なんと700年も前のお墓です。

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そしていよいよ信号を渡り、善光寺へ到着。

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敷地から仲見世通り、山門にかけて石畳が敷かれています。これは、1700年代に二名の方より寄進されたもので、長野市文化財になっています。

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歩いていくと仁王門が目に入ります。
こちらの建造は宝暦2(1752)年ですが、弘化・明治と火災で焼失し、大正7(1918)年に再建されたものです。

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更に歩いていくと見事な山門が。
こちらはなんと、寛延3(1750)年に建てられ大地震を耐え、火災を避けられて平成の大改修(2002~2007)まで当時のままでした。改修は老朽化によるもので、建築年数と同じ5年がかりで行っています。

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門の中には全国の善光寺と名のつく寺の数などが日本地図で説明されています。


そしていよいよ本堂へ。
こちらは度々火災にあうも、元禄の火災を最後に徳川幕府の命で7年かけて宝永4(1707)年に再建され今に至ります。明治28年に国宝指定されています。

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当家は代々善光寺でも先祖供養をして頂いており、その証書が数枚神棚に残されています。
せっかくなので父の三回忌の祈祷をお願いしました。

指定された時間に集合し、首から帯をかけて本堂へ向かいます。祈祷申込み者は一般参拝者よりも前に行けます。
今回はなんと自分一人のみの申し込みであり、お坊さんからも「本日は貸しきりでございます。」と壇の前に正座し背後から数十人の視線を感じながらの祈祷でした。


その後はお戒壇巡りという、極楽浄土へ行けるようにする為に、ご本尊の下を一周(45m)回る行事があります。こちらは、本堂の階段を下りると真っ暗闇です。右手で壁を伝いながら前の人とぶつからないようにゆっくりと歩いていきます。
因みに、途中に極楽の錠(壁についている輪)というものがあり、それに触れると極楽浄土が約束されるとか。
前の方の人が触れる音が聞こえましたが、私は分からずにそのまま通りすぎてしまいました。


そもそも私は死後の世界は信じていないから特にどうといった訳ではないですけどね。



本堂を後にして、西側にある大勧進(だいかんじん)という所に向かいました。
こちらの門はなんと寛政元(1789)年建造です。

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奥には武田信玄上杉謙信らの位牌が安置されています。善光寺は戦国武将でも馴染みのある場所なんですね。
因みに、門前の橋から下の池を見るとアカミミガメが数匹見えます。その中にスッポンが一匹だけいましたのでとりあえず撮影しました。

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最後に、大勧進の隣にある大本願という所に寄って事務の方と色々な話をして善光寺を後にしました。


敷地内の石碑や名が刻まれている灯籠など全て目を通しましたが、先祖の名が記載されているものはありませんでした。



そして歩いて長野駅方面へ戻り、ホテルに向かいます。いつも遠出の時は、源泉かけ流しの温泉付きの歴史ある旅館を選んでいますが今回は節約して、運びの温泉があるビジネスホテルにしました。

暗くなってから町へ夜遊びに行き、腹ごしらえをしてホテルに戻りテレビでお笑いを見ていました。
これはYouTubeが見れるテレビで、とりあえずおすすめに上がってたのを見て深夜を迎えました。

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ここから調査とは関係ありません。せっかく遠出したので観光に行きます。長野駅からバスで松代へ向かい、六文銭の真田家に関する家・武家屋敷を見て回りました。
因みに観光案内所にて、300円で夕方まで自転車を借りることが出来ますのでこちらを利用しました。(水曜日は定休日がかなり多かったです)


屋敷を一通り回り、松代象山地下壕という所へ行きました。
ここは第二次世界大戦末期に本土決戦の砦に極秘に作られたものです。労働者には多くの日本人・朝鮮人が働かされ、多くの方が亡くなっていきました。
終戦後、証拠隠滅の為に関係史料は全て焼却されて真実は闇に葬られました。その為、どのくらいの人数で誰が亡くなったのかすら分かりません。
大日本帝国時代は上の考えがとても恐ろしいです。仮に戦争に勝利していたら今でも軍事国家で、貴族制度も継続していたのではないでしょうか。

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内部は非常に広い直線になっています。公開しているのは黒い部分のみです。

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観光は無料。ヘルメットは必ずして行きます。
どんどん進むにつれて、当時の過酷な映像が頭に浮かびます。内部は私一人なので少しばかり恐怖感がありました。

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最深部は急にかなりカビ臭くなりました。
一定の距離にまとまってトンネルを支えている丸太に真っ白で大量のカビが生えていた為です。

胞子をなるべく吸い込まないように行き止まりまで確認し、来た道を引き返しました。

戦争当時の環境に行くといかに今が恵まれているのか改めて感じられます。


最後に真田家を祀ってあるお寺へ墓を見に行きました。ここは安永、天明、弘化等の江戸時代のお墓がゴロゴロあります。
当家の菩提寺は歴史は1200年代からですが、ほぼ昭和からのお墓で江戸時代のものはほぼありません。
戦災の被害の有無で大分変わってきますね。

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小腹が空いた為、焼きたてのパン屋さんでアンパンマンの顔をしたチョコパン、クリームパン、フレンチトーストを食べていきました。ふわっふわでクリーム・チョコがたっぷり入っており味も大変美味でした。あまりに美味しかったので、新幹線用にも買っていきました。店員のおばさまは大喜びです。

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そして帰路へ着きました。



当家ゆかりの寺社。
残すは和歌山の高野山、三重の伊勢神宮となりました。正直もう石碑は期待せずに観光目的でいずれ向かおうと思います。

全国の稲荷神社総本山

15日、16日と青年会の京都旅行で伏見稲荷大社へ正式参拝に行ってきました。

当会は祭礼が無事に終わった報告として、毎年一週はさんで伏見稲荷へ参拝しに行っております。

伏見稲荷といえば、外国人が行きたいランキングでトップになっている所です。何処を見ても外国人だらけ。特に中国が多いです。
あまりのマナーの悪さに、出店が無くなったと聞きましたが境内には普通にありました。

そして、その中にあった串焼きの店で神戸牛串が一本2000円はさすがに驚きました。


門を潜って半纏着用の上、正式参拝です。
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その後に社務所にて神主さんのお話を伺いました。
社務所内は非常に美しく、入り口には手水舎があり通路を進むとガラス張りの廊下に庭園が見える見事な光景です。非公式になっている為、写真アップは控えました。
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その後から数名で別の観光コースを楽しみました。
河原町の方を周りましたが、とあるカフェに長蛇の列が見えました。店員さんに伺うと、ゼリードリンクが流行っているそうな。

東京でタピオカがかなり流行っていますが、同じようなものですかね。


夕方に宿へ到着し、一休みして宴会です。
和牛尽くしで中でも握りが一番美味でした。

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そして
夜は各々方、グループ別で音楽を聞きに行ったり、料亭へ行ったり、宿で休んでいたりと好きなように活動されます。

私は例年、先斗町(ぽんとちょう)の鴨川納涼床へ行っております。
夕方より雨が降っていた為に座敷でしたが、
なんと貸し切り状態でした。
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こちらのお店に通うのは3度目になりました。ハモの湯引きが非常に美味で、梅肉で頂きます。
去年はカナダの方がいたり、床どこで風が結構吹いて極寒だったりでしたが、今年は貸し切り状態なのでのんびりと出来ました。


そして最後に小さならぁめん屋に寄ります。
またしても貸し切り状態になりましたが、豚の角煮・水餃子・ぎとぎとのらぁめんを食べて終了です。
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珍しく日を跨がずに宿に帰りました。






そして二日目は護王神社で正式参拝です。
ここは奈良時代の伝説で猪が出てきます。故に境内は猪の剥製や木彫り等が大量にあります。
因みに、足腰の守護としても有名です。腰を痛め続ける私にとってうってつけですね。
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その後に嵐山、渡月橋(とげつきょう)付近の料亭で昼食をとります。

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特に右下の茄子が柔らかく味が染みて美味しかったです。

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その後もグループ別に宿に戻る人・祇園・麹町等好きなように別れます。
私は祇園に行って来ました。丁度雨が降って来て神社、通りを手短に散策し宿に戻りました。




少しロビーで休んだ後に送迎バスで京都駅へ向かい、品川まで新幹線で。そしてタクシーで地元に帰ってきました。


天候がそこまでよくなかったですが、激しい雨は避けられて暑さもなく良い京都旅行になったと思います。

去年は帰ってきた次の日に関西の大地震で新幹線が止まったので危うく難を逃れました。

にしても最近地震が多いですね。東北の時の様に巨大な地震が一度に来る位なら、震度5クラスがそれなりに来てエネルギーを分散してくれたらどれだけ良いかなんて思ったりしますが、改めて地球は生きているんだと感じさせられると共に自然の恐ろしさを認識出来ます。


はやくも、6月が終わります。
7月14日には無形民俗文化財に指定されている680年の歴史がある「厳正寺水止めの舞」があります。
当日は夜勤明けの為、見ることが出来るのでたのしみです。

遠縁の再会

以前の内容に書いた置き新屋についてです。

高祖父の兄弟子孫とはもう半世紀程付き合いはありませんが、その一族が何処に住まれているかは調査で判明していました。しかし、一人だけこちらの家の方については全く情報がありません。

二年前に最古である控帳の昭和15年の曾祖父末の妹さんの婚姻のものを長老に見て頂き判明した高祖父弟、丹右ヱ門三男の横山冨蔵さん。
その長男である方の名前までギリギリ高祖父の香典帳で確認出来ましたが、昭和31年のこの時が最後になりました。




そんなわけで、子孫の方と面会できた流れについて書いていきます。

長老の情報を元になんとしても特定したい、しかしながら昭和中頃からの控え帳に名はありません。ただ、横山に改姓しているという事実と、家は昭和30年代から無いという手がかりのみでは中々難しく、その近場に子孫の家がないか確認するも横山姓は一軒もありません。

もしかしたら断絶してしまったのではないかという思いが強まってきました。家が無くなり断絶してしまうことを戦前の旧民法では「絶家」といいます。
ちなみに親族が絶家した家に入り復興する事を「廃絶家再興」といいます。

例にすると、サザエさんの一家が海外移住等で全員いなくなり、ノリスケが磯の家(自宅)に入り「家」を続けさせるというイメージです。




そんな中、「そういえばお墓はどうだろか」という考えが浮かびました。当家は浄土真宗ですが、横山家は宗派が分かりません。調べてみるにこしたことは無いため、菩提寺の数百の墓石を片っ端から見て周りました。知らない別一族であろう滑川家の墓もいくつかありましたが、横山姓も当寺に多く見られ、ほぼ家紋は丸に違い鷹の羽(ちがいたかのは)です。

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墓石の見回りが終りそうになった頃、一つの横山家の墓石が目に入りました。よく見ると、家紋が当家と同じく丸に三ツ割木弧(みつわりもっこ)です。

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さらに墓石側面の施主を確認すると、冨蔵氏の長男の方の名が掘ってあります!これは間違いなく探している横山家の墓です!
今でも残っているということは管理する子孫がいることを意味します。様子としてはしばらくお参りに来られた様な形跡はありません。
でも見つかった事に感激しました!

この日には気づきませんでしたが、後日改めて確認した後に寺の年忌法要俵を確認しに行きました。
するとなんと長男の方と思われる法名の33回忌の施主の名が、長男の一文字を使った名前でした。これは間違いなく子孫の方です。
そして電話帳で調べて緊張しながら電話をするも使用されていないアナウンスが流れました。

更に別日、グーグルマップで住所を調べて自転車で15分程度の場所にあった為、家を確認しに行くと施主の名に記載されていた冨蔵氏の孫と思われる方の標識がありました。是非ともお会いして話を伺いたい!まずは怪しまれない為に手紙を書きポストに投函します。
2か月くらいでしょうか。全く音沙汰がありません。もしかしたら怪しまれてそのままにされたか、以前あった様にルーツ調べに否定的な方であるのかもと不安になります。

もう、直接伺うしかありません!
あらかじめ手土産と証拠となる冨蔵氏の名が記載されている書類を持ちインターホンを鳴らします。しかしながらいらっしゃいません。改めて別の日に行くことにしました。しかし中々会えません。

結局半年以内に6回程伺ったでしょうか。全くいらっしゃいません。もしかしたら入院?それとも入口のバリアフリー環境を見る限り施設通いをされているのか。最悪空き家になっている可能性も浮かんできました。でもここまで来て諦めきれません。

私はこの春に体づくりの為にジムに行きはじめました。夜勤明けの日にジムで19時辺りまで運動して帰りに明かりが点いているのかダメもとで見に行くことにしました。実はこれまでは午前中、昼過ぎ、夕方と伺いましたが、迷惑になってしまうと思い夜の時間は避けて行ってませんでした。

すると明かりがついています!何にも持ってきていませんが、せめて確認だけでもとインターホンを鳴らします。
すると男性の方が出てこられました。「以前、お手紙を送らせて頂いた者で…」と挨拶した所、「あぁ、飲んで忘れてたよ。ごめん。」と仰います。この時点で否定的な方ではないと確信しました。続いて先祖の方は冨蔵さんであるか、昔置き新屋と呼ばれていなかったか確認すると「そう!じいさんが冨蔵!」と明るく答えます。

遂に、ようやくお会い出来ました。一時期諦めていましたが探していた明治11年に生まれの高祖父弟冨蔵氏のお孫さんです。すかさず、何年まで存命で死因は何だったのか伺いました。昭和28年、72歳で交通事故で亡くなったとの事でした。手紙に写真や昔の資料が残っていたら見せて頂きたい事を書いていた為「残念だけど何にも残っていないんだ。ごめんね。」とそのまま戻られそうな雰囲気でしたので、せっかく面会出来たのにと思いスマホで撮っていた明治の戸籍を用意し「実は、ここの所当家の明治の戸籍が見つかりまして冨蔵さんも記載されておりまして…」と声をかけた所、「…上がってく?飲んでたから特に何もないけど。」と。まさかの展開です。有難くあがらせて頂きました。


夕食の時間である為、ホットプレートで焼き肉をされており、お酒と共にごちそうして頂けました。
私が調べた当家の情報を話しながら詳しく昔の話を伺います。現当主は78歳のお酒が大好きな方でした。なんと当家に来たことがあるとの事。父が生まれる1年前、昭和27年が最後に行った日との事。冨蔵氏が28年に亡くなられてから、お付き合いはほぼ無くなったそうです。どおりでそのあたりの年代から控帳に横山姓が見当たらないわけです。そんな訳で、半世紀程の時を経て明治の分家と本家の子孫が再会したわけです。


置き新屋について伺うと「その土地には3本の木が生えていたから三本木って呼んでいたと聞いているよ。」と初めての情報が出てきました。残念ながら、ご当主が産まれた時にはもう無かったとの事。
色々と伺うと冨蔵氏の兄である家、向河岸の事を知っていました。何でも、海苔時代にその親族と付き合いがあったとの事で、今はもう知らないそうです。
因みに冨蔵氏について伺うと「酒と博打が大好きだったな。ただ、女遊びだけはしなかった。事故に遭った日も博打をしに梅屋敷(京急線)に行ってタクシーにぶつけられた。その瞬間を向河岸の親族が目撃して、『なんか似ているな』と家に連絡が来てそれで分かったんだ。事故の時は信号機が無かったけど、この事故を境に信号機が設置されたんだよ。」と、当時の大変貴重なお話を聞かせて頂きました。

滑川家については残念ながら冨蔵氏はあまり話さない方であり、その息子さんも同様な方であった為に伝承は伝えられていませんでした。
横山家のお話も伺うと「お袋は埼玉から海苔で本家に奉公に来ていたんだよ。」と更に知られざる情報を聞けました。
どんどん新たな情報が増えて嬉しい限りです。
他には旅行が好きとの事で、私自身も1、2か月には遠出するくらい好きな為話がはずみます。気づいたら21時30分手前で、2時間以上話していました。もう遅くなった為、ここでおいとまさせて頂きましたが「今度来るときは家の目の前に自転車を止めるといいよ。」と言って下さりました。中々陽気な方で楽しい時間を過ごせました。



この日はダメもとであった為、別日に改めて伺い冨蔵氏が戸主の除籍謄本をみたいため委任状にサインして頂きました。
勿論、この時は資料も持っていき、前回のお礼として旅行で購入した群馬のお酒を手土産に伺いました。
最古の控帳を見て頂くとまさかの冨蔵氏の娘さんたちの嫁ぎ先の方々の名が記載されている事が判明しました。ご当主は喜ばれ、今で唯一付き合いがある兄弟の様に育った従兄弟の方(79歳)を紹介して頂きました。こちらの方は現役で働かれている為いずれ日を見て3人で会う事を約束しました。シフト次第ですがとても楽しみです。


最後に土地についてです。
元本家であった置き新屋は長老が結婚(昭和30年代)するときには無くなっていたと聞いていました。
謄本を見て判明したことですが、こちらは置き新屋から転籍した土地でした。

転籍の記録を見るとb>当家が建った昭和3年の次の年に長老が無くなったと言っていた土地に転籍したと記載されていました。
年代的に大正の大震災で被害を受けたのでしょうか。
つまり昭和4年には置き新屋は無くなっていたのです。元本家の家だった為、江戸時代から続く草ぶきの家であり初代は勿論、先祖はこの家から産まれていたのでどの様な家であったのか非常に知りたかったです。
戦災が酷かった地域ですので写真が残っている可能性は絶望的ですが、調べてみる価値は十分にありますね。

にしても転籍を繰り返されており、当時は東京府荏原郡東京市大森区、東京都大田区と名称が変わった事もあり、地番も4桁~3桁の数字のもので、大正・昭和初期の地図を細かく見ても当てはめるのが大変な作業です。土地の移り変わりについてはまだ整理しきれていない為、これから作業していく予定です。






しかしながら、この調査は無事努力が実った結果になりました。探し人が人柄が良く、いい関係性を築け、新たな情報を得ると共に貴重な繋がりにもなりました。ルーツ調べをして一番うれしい瞬間です。
遠縁ながら当家に来ていた親族の方なので、何とも不思議な気持ちです。
今後も定期的に調査や旅行等のお話をしにお邪魔したいと思っています。

六郷神社祭礼

昨日は夜勤明けで六郷神社の祭礼に行って来ました。

残り30分程度の時間でしたが、
中々入るスキが無く、結局担げず。

最後の宮入も見所があり、録画をしていたつもりでしたが録画ボタンが押せておらず
結局無駄に手を伸ばしていただけとういう虚しい事になりました。

雨が次第に降り始めましたが、激しさは無いのがなによりでした。



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祭りには酒がつきものですが、
私は体質的に酒が弱く全く飲めません。この日は合流した時にサワーを一杯飲んだだけでしたが、結局深夜まで気持ち悪さが長引きました。疲れていたのもありますが、なんだか年々弱くなっている様に感じます。

おまけに合流した時点でとある所からそれなりに出血するという始末。今日は休みでしたが、昨日の帰宅後から今日の昼過ぎまで疲労で全身が動かないくらいでした。


夜勤明けで行くべきではないですが、年に1度の限られたものですので、出来るだけ参加していきたいと思ってますが、体の事を考えると止めた方が良いのか悩みどころです。

何もせずに1日を過ごすのは勿体ないと思いいつも何かしらやってしまいますが、何もしない日も身体にとって大事な事なのだと改めて感じました。

屋号

今回は屋号についてです。

呼び方は一つの項目に限らず
その土地に移り住んだ初代の名前、分家初代の名前、
職業、場所、等由来が様々な屋号が存在します。



地元には、
下駄屋・桶屋・鍛冶屋・篭屋などの職業の屋号。

惣助、六右衛門(ろくえむどん)、勇次郎(ゆうじさん)、太郎吉(たぁさん)等先祖の名前の屋号。

等があります。



当家は先祖の名前である丹右ヱ門(たいむどん)ですね。昔の円台、バケツ、木材や道具等には「丹」や「滑丹」と記載されて当家のものだと見て分かるようになっています。

そんなわけで以下親族、分家の屋号を紹介していきます。

昭和初期に分家した曾祖父姉、弟の家は当家から離れた土地に正面に向かい合う形で建ちました。姉の方の家は移築し現在はありませんが、当時は「前の家」「裏の家」と呼ばれていました。
前の家から当家の事は「大本家」、「表の家」(表とは本家の事)と呼ばれています。

続いて曾祖父妹さんの嫁ぎ先の家。
惣五郎さんが江戸時代に分家した家である「惣五郎爺屋」は、訛りで呼び方が
そうごろうじいや→そっごじいや→そっこうじんや
と呼んできます。
始めは「そこの新屋だから、そっこうじんや。」と聞いていましたが、調査を始めてから全く別の事実であることがわかりました。

二人目の妹さんの嫁ぎ先は大鳥居の海苔屋。
通称「大鳥居の家」です。
ここからは当家は「免田の家」と呼ばれています。というのも、前の浦地区は昔田んぼの税金が免除された為に、ここから「免田」と呼ばれたそうです。
前の浦は昔、舞の浦とも呼ばれ現在も舞の浦公園なるものもあります。
由来は、海が近かった為に鷺(さぎ)が舞っていたところから来たようです。

続いて末の妹さんは現港区である麻布(旧麻布区)に嫁ぎましたが、戦争の被害を酷く受け、こちらに移り住みました。通称「麻布の叔母さん」と呼ばれています。
調査を始めたときに、娘さんへ聞き込みをするため麻布の方まで行くことになるかと思っていましたが、この時に地元にいらっしゃった事が分かりました。
父の兄弟も、呼び方から麻布に住んでいると思っていたようです。



そして、明治期に分家した高祖父兄弟の家です。

当家の位置から向こうの川岸に住んでいた為、「向川岸(むこうがし)の家」と呼びました。


末の弟は森ヶ崎に分家したので「森ヶ崎の家」。



最後に三男の方ですが、分家というよりは当家が新たな土地に移った為、転籍前の家を引き継いだお宅です。本家は移動し、元の本家を新屋(しんや:分家の事)とした為、「置き新屋(じんや)」と呼びました。
こちらの方は入夫婚姻(今はない制度。女戸主の家に入り新たに戸主となる。その為、名字は妻の方になる。婿養子婚姻と違い妻の両親とは法律上親子にはならない)で横山姓となっています。

こちらの一族については全く情報がなく、入夫婚姻の事実を知ったのも今年の年始めに見つけた明治の戸籍から判明したことです。
というのも、昭和後半の控え帳を見ても横山さんの名が無くお付き合いは途切れており当時住まれていたお宅も昭和後期には無くなって公園となっております。その為、断絶してしまったのではないかと思い調査は困難でした。

氏神の三輪厳島神社(弁天神社)所蔵の明治の手作り地図を参考に、横山家周辺の当時から続いているお宅に小さな可能性をかけて手紙を送りましたが、結局返事はありません。

手掛かりを掴めず、どうしたものかと頭を抱えましたが、諦めきれずに何か方法はないか考えました。




そうだ、菩提寺(家のお墓がある寺)を見よう。



ここから調査は大きく発展していきます。

浦守稲荷神社祭礼

先日、1日・2日は前回でお話した地元氏神、浦守稲荷神社の祭礼でした。
土曜日は夕方より、大・中の神輿が。
日曜日は朝より山車(だし)、大・中・小の神輿が出ます。

土曜日は前の浦商店街等を周ります。
昔は団子屋・八百屋・服屋等多くの商店があり賑わっていましたが、今は魚屋・肉屋・中華屋・練り物屋・パン屋と数少なくなりました。
スーパーやコンビニは大変便利ですが、その中で今までの商売を変わらず続けていくのは非常に大変な事だと思います。


話は戻り、神輿巡行コースに去年手紙を送りお話を聞かせて頂いた親族か不明の滑川家の方がいらっしゃったので挨拶をしました。
こちらのお宅は2代続いて養子であり、「滑川家」ではありますが、滑川の血は引いておりません。
2代前の養父の方は乙吉氏。もしかしたら当家の江戸時代分家した親族の可能性がありますが、大田区は昭和3年に司法大臣の命により戸籍が改正(明治19年、31年式の戸籍から一律大正4年式へ)され、どんなに古くても現状こちらの年代の除籍謄本しか取得できなくなっています。
その為、この乙吉さんは「前戸主」の欄でしか名前が確認出来ません。80年廃棄がなければ、乙吉氏の両親の名が判明し、当家と関係があったかどうかが分かったので残念です。
こちらの方は手紙を送った後、直ぐに読んで連絡を下さり色々な事を教えて頂きました。この様に、一切面識が無くとも訳をお伝えし協力して頂けるのは大変うれしい事です。調査で繋がりが出来る嬉しい瞬間でもあります。




話は祭礼に戻り、
夕方からの神輿巡行は照明が点くので日中とはまた違った良い見た目になります。※照明が点いた大神輿は撮り忘れました。

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神輿が神社を出て巡行が始まる事を「宮出し」
巡行を終え神社に戻る事を「宮入」と言います。

この宮入りが一番盛り上がり、また喧嘩が起きるほど一番熱くなる瞬間でもあります。
これは担いでも見ていても楽しめます。




日曜日は1日かけて3丁目、5丁目、2丁目と大森南を周ります。
中でも東京労災病院がある大森5丁目は現在となってはバス停・公園等でしか見れませんが、かつては「森ケ崎」と言われていました。
明治期に温泉を掘りだし、「森ケ崎鉱泉」という温泉地で旅館が多く建てられ目の前に海岸もあった為避暑地として賑わいました。
しかし、戦前まで続きましたが戦後からは衰退し、旅館は次々消えて行き今では見る影もありません。当時の鉱泉旅館は現在、住宅地・病院の寮等に姿を変えています。
鉱泉街には養魚場もあり、その広い敷地は現在日本で一番大きいと言われる水再生センターになっています。以前は森ケ崎汚水処理場でしたが、私が中学の時に新たに名称を変更する為アンケートをとっていた事を覚えています。そして今の水再生センターに名が変わりました。


道を真っすぐ進むと
懐かしい母校大森第一中学校・池上自動車教習所があります。

そして長い商店街、通りを進み前の浦へと戻ってきます。


最後の休憩地点では以前「げんた」と言われる、人が繋がり円になって踊るものがありましたが、出来る方がおらず6年ほど前辺りから行わなくなりました。

宮入後の写真です。
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今年も無事に終えました。




私は早朝から、他友好団体のもてなしの準備や神輿の馬(神輿を置く台)を軽トラックで運び、次の休憩地点まで急ぎ設置する係を担当し、タイミングが良ければ担ぎに入っていました。
初めは辛かったですが、今では楽しくやりがいを感じています。



来週の日曜は夜勤明けで六郷の祭礼へ初めて担ぎに行く予定です。

別件で、昭和20年代より付き合いが無くなった、情報が全く無い高祖父弟の子孫の家を特定しコンタクトを取った結果、協力・お付き合いが出来るようになり、調査が進展した嬉しいことがありました。