東友会2
昨年の新年会より、早一年が経過しました。
例年、1月の3、4週目に明治創業の天ぷらの店「天仲」で芸者を呼んでの新年会を行いますが、残念ながら先客が予約済みで今年は大森駅ヴェルポートの中華店「銀座アスター ベルシーヌ大森」にて食事をしました。
ここは7年程前に家族で行った思いでの場所でもあります。
今年は役員改正の年であり、3年を一期とする幹事となりました。後日の役員会では重要な金庫番の会計も合わせて担うことになり、後日引き継ぎ作業を行い中々大変になりそうです。
そして、いよいよ来年は100周年を迎えます。
地域でここまで歴史のある会は大変貴重です。大先輩方は現状、会員で亡くなられた方の法要及び周年の食事を考えられていますが、自分は更に会の歴史をまとめた資料集を作成することを発案しております。
大正10年10月より世代交代で100年継続した訳ですが、初期の資料を保管されているお宅は限りなく少ないと思われます。
発起人の名簿や発足に至った経緯などを知る方は極々僅かです。
聞き書きや、現存する資料の内容、歴代の会長や、世代交代の関係、周年行事の写真などをまとめることにより、中々のものになると思われます。
あると無いとでは全く異なり、大先輩方にも懐かしがって頂ける事かと。
後日の役員会ではそこのところを先輩方に意見を頂きたいと思っております。
初めての役員会では、引き継ぎ・食事の後に昔話が繰り広げられていました。
どれも初めて耳にする事で7、80年前の地元の全く異なった様子を聞けました。
今では肉屋、パン屋、中華屋、魚屋だけになった商店街。当時は大変栄えており、現在建て売りが並ぶ住宅街にずらーっと店が続いていたということを知りました。
幼少期にあった食器店、和菓子屋、呉服屋、八百屋はコンビニや大型の商店が出来てから次第に姿を消していきました。
そして、今まで青年会でもよく利用し、中学時代剣道の打ち上げでも食事に行った中華店が閉店するという話を耳にしました。
ここ数年で地元の食事処は殆ど閉店してしまいました。
一番驚いた事は、昔は近場に朝鮮部落が存在したということでした。これは今まで誰にも聞いたことがありません。
90近い方の若かりし頃の話は大変貴重ですね。
伝統の海苔養殖業で栄えた町も近代化、核家族化により別世界のように変わりました。
会を通して、この歴史の変遷を生の声にて資料を集め、作成する事が自分自身の使命かと思っております。
進水祝
ここのところ、三代目の妻の生まれである小松原家にお手紙を送りました。
メールで返事を頂き、とても興味深いお話をうかがいました。
「滑川家の船の進水を祝う手拭いがありますが、お持ちでしょうか?無ければお渡ししたいのですが。」
と。
その様なものは見たことがなかった為に、ぜひとも頂きたいとお願いして送っていただきました。
第一蓬莱丸は、四代目となる祖父が造船したものです。大森船大工の記録によると、昭和34年頃に造船したもので、以前『海苔船』でアップしたものです。
ほぼ、当時のまま保管して頂き、60年経った今でも綺麗な状態でした。本当にありがたいです。
ちなみに、母が昔に見た記憶があるそうで、残っていない現在を考えると年代的にも古くてボロボロになった為に処分されたと思われます。
頂いたものは、当家の歴史資料として大事に仏間に保管しておきます。
ところで、宝船の帆に『∧丹』と記載されています。丹の上の部分は「山形」と呼び、屋号や商標等に使用されているものです。
家印(いえじるし)とも呼び、当家だと丹右エ門なので「ヤマタン」と読みます。他の同姓と混乱しないように屋号をマークにしたものですね。
一般に目につく物で思い当たるのが山形にサで『ヤマサ』です。こちらは商標として使われています。
当家の屋根です。
鬼瓦に家紋の三ツ割木弧。
下の木材(名称はわかりません)にはヤマタンのマークがつけられています。
小松原さんには後日、古い当家に関する写真が残っていないか確認して頂き、当家には何故か残っていない祖父母の結婚の写真を頂きました。
最古のアルバムでも父が生まれた昭和28年からのものしかありません。
昭和27年に自宅で三日三晩祝ったと聞きます。当時の様子の写真、集合写真もあれば、古い分家・親族の人たちも載っただけに残念です。
更に後日、直接お会いしてお話を伺ったりまとめた資料を見ていただいたりしました。2歳で亡くなった祖父の姿やパワフルな現役時代の祖母の話を聞けたりと有意義な時間でした。
やはり、行動してみるにこしたことはありませんね。自分から遠い親族でも、思わぬ資料をお持ちだったり生の話を聞けたりと新たな情報を得ることが出来ます。
ちなみに、高祖父妻の生まれの大山家にも手紙をだし、そちらは分家でしたが当主の方が、本家当主の方へ紹介して頂き、「家系図があったから、探しておきます。」とのことで楽しみに待っている最中です。
面識が無くとも、事情を理解して頂いて協力して頂けるのは嬉しい限りです。
皇大神宮
編集中でかなり手付かずでした。
先月、中旬に三重県、伊勢神宮の内宮といわれる皇大神宮に行ってきました。
当家に2枚の証書が残っています。
一枚は
二代目が本家新築の際に神楽殿にて祈祷を受けたもの。90年前ですね。
壹圓=一円
昭和2年時だと大体2、3000円という記事を見ました。一日の大工の手間賃が4円、日雇い労働者が2円とおおよその事が記載されていましたが、中々当時と現代を比べる正確な数値を出すのは難しそうです。
変わってもう一枚は
三代目が第60回の式年遷宮に参加したというものです。
20年に一度行われる神殿の立て替えで、現在は平成25年に62回の遷宮が行われています。これは1300年も続いているそうです。
こちらが神楽殿。見事な造りです。
ちなみに、
神宮まで五十鈴川駅から歩いて3kmほどでした。道中の町並みも十分楽しめます。
赤福の店がありました。
創業宝永4年とは驚きです。
一通り観光してから雨が降り始めました。
そして宿をとった二見浦まで向かいます。
無人の駅に着いたらバケツをひっくり返したように大雨が降った為、しばらく雨宿りしました。
宿は素泊まり、貸し切り温泉付きの宿に泊まりました。海の近場の宿に泊まったら翌日の朝日を楽しみにします。
5年前に両親と一緒に行った静岡県白浜の見事な朝焼けは今までで一番綺麗な光景だと目に焼き付いています。
幸い、次の日は晴れて5時過ぎから歩いて向かい、海沿いの夫婦岩の朝日を楽しむことが出来ました。
鎌倉時代から続くすごい歴史です。
一通り堪能した後にチェックアウトし、再び夫婦岩の道を向かい、明治20年に造られた賓日館を観光。
夫婦岩の奥の道を突っ切り伊勢水族館に行ってきました。
お土産屋、食事処も色々とあります。
水族館では面白いものが見れました。
アザラシの赤ちゃんは好奇心旺盛でこちらをじっと見てきます。
朝が早いと一日が長いです。観光も楽しみ、帰路につきました。今回判明したことは神棚にある「天照皇大神宮」の掛け軸が証書の日付でもあった為に、この時に貰ったんだと知り得ました。
いよいよ、所縁のある寺社は残すところ明治神宮と高野山になりました。前者はいつでも行けるので先伸ばしにしています。
今年度中にはどちらも行ってこようと思います。
大森神社祭礼
先週日曜に今シーズン最後の祭礼外交に行ってきました。
同日に天祖諏訪神社の祭礼も行われていましたが、夜勤明けで昼に帰ってきたので、一休みして夕方より大森神社の祭礼に合流してきました。
ここの担ぎ方も江戸前神輿です。
こちらの神輿には太鼓があります。
神輿が上がる前からお囃子の人が叩き始め、巡行は勿論休憩で御輿が下がるときまで代わる代わる叩き続けます。
以前紹介した旧東海道である美原通り周辺を巡行します。休憩時には享保元年創業である和菓子屋の餅甚さんのおもてなしがあり、美味しい羊羮を頂きました。
次第に暗くなり宮入が近づきます。
宮入前は一旦神輿を下ろし、
注意事項等を聞いた後に人が三人担ぎ棒に乗って一本締めを行い宮入に移ります。
地元で人が乗る神輿は初めて見ました。
これで令和元年の祭礼外交は終了しました。
青年会では今月末に定例総会が行われます。
その後は大晦日や初午祭等の準備が始まります。
今年も残すところ3か月少しとなりました。月日が経つ事を本当に早く感じます。
陽気も冷えたので体調を崩さないようにしたいものです。
江戸時代の紙位牌
当家の仏壇の引き出しに、法名(戒名)が書いてある紙位牌が複数見つかってから3年と経ちません。
見つかった経緯ですが、仏間の整理の時に『何か引き継がれていない古いものがあるのでは?』と期待を込めて探ったところ、仏壇の隠し引き出しというものに気付きました。
ドキドキして引き出しを引くと、ビニール袋に古い縦長の紙が沢山入っているものが出てきました。
それこそが新しくても大正9年のもので、最古は元文4年(1739年)の紙位牌でした。
元文4未十月九日 尺妙意信女
以前の記事にも書きましたが、江戸~明治にかけての年月日では元号の次に干支が記載されているものが殆どです。
尺は現在では釈(旧字:釋)。浄土真宗では亡くなったら皆、お釈迦様の弟子になるというところからきています。
そして妙は女性の法名によく見ます。
信女は男だと信士。これは位号といいます。
信士、信女→居士、大姉(たいし)→大居士、清大姉
の順に位が高いです。
子供だと童子(女)、孩児(女)、嬰児(女)となります。
また、お寺や社会に貢献すると院号なるものもつけられます。こちらは法名の頭につきます。
例:○○院釋△△居士
△の部分には、生前の名前(俗名)ともう一文字その人を表すような字が使われます。
三代目までの法名を例にすると、
初代丹右エ門:釋丹嶺
二代目助次郎:釋助蒙
三代目菊藏:釋菊養
この上に院号、下に位号がつけられております。
ちなみに、法名(戒名)をつける際はかなりの金額が必要で、院号をつけるとなると更に驚くくらいの金額が必要です。
浄土真宗は費用の面だと良心的であるそうですが、正直お寺、住職によると思います。
話は戻り、
確認すると過去帳に無い名前の紙位牌が多くありました。過去帳は菩提寺で弔った際に名が書かれるので、旅先で亡くなった等の事情で他のお寺で供養された際は過去帳には記載されません。
新たな発見があったと喜びは束の間、見て分かるように亡くなった日・法名しか記載されていないため名前も続柄も享年も何一つ分かりません。これではしっかりした系図も追記出来ません。
何故に生きていた時の名前を尊重せずに、亡くなった後につける訳のわからない名前を尊重するのか分かりません。
先祖供養の風習は残っているのに、誰の何番目の子供で誰であり何歳まで生きたのかを子孫に全く分かるようにしないのも不思議な話です。過去帳の備考にも「父」や「子」の記載だけでは全く参考になりません。
ただ、法名と死亡年月日のみの情報で、何も知り得ない子々孫々が祀り続けていくというのも不思議です。
この中で、ひとつだけ新たな情報が分かった紙位牌がありました。
法號 釈授與信士 不退位
寛延二巳己天 寛政一二申年亀四十九歳
唯一享年が記載されており、49歳で亡くなっていることが分かりました。
ただ、これは寛延2年に生まれて寛政12年で亡くなったのか、寛延2年に亡くなり寛政12年に50回忌をしたということなのかどちらの見方も出きるため詳細は不明ですが、確実な事は「49歳で亡くなった」ということ。
これで過去帳リストに新たに追記することが出来ました。
生前の名前や享年が分からなくとも、現在発行できる戸籍(特に明治期)で生年・名前・続柄が分かる事が出来ますが、江戸時代となると不可能です。
特に江戸時代は子供の時に亡くなる方が多く、傍系の子供の可能性もありますので、例え「子」と記載してあっても直系の子供とは限りませんので注意です。
そんなわけで、実家に仏壇がある方は隠し引き出しに思わぬ先祖に関するお宝が眠っているかもしれないので調べてみて下さい。