大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

災害・死因

体調不良が続きしばらくぶりになりました。
今回は家の災害の歴史と、先祖の死因についてです。


自宅の過去帳を眺めていると、とある日に2名が亡くなっている事が分かりました。一人は子供、一人は掛人(かかりゅうと:居候、未婚の兄弟)と記載されています。

さて、ここで考えられるのは何かしら事故があったかまたは災害があったのかと頭をよぎります。その没年月日は、



1856(安政3)年8月25日

調べてみたところ、なんとヒットしました。
それは



安政の台風及び
安政3年の大風災
というもの。

f:id:nameto:20181225172809j:plain
当時の瓦版

江戸付近に強い勢力の台風が通過した事により、江戸の街一帯が暴風・高潮の被害を受け、その暴風雨に加えて火災が発生し被害拡大。
この台風の死者は資料によるものの、推定10万人とされてる日本の風水害としては過去最悪の被害でした。
もしかしたら、この災害の犠牲になった可能性が高いと思われます。


そしてその前年にはかの有名な安政の大地震がありました。
都内の方で過去帖を見ると、この日にご先祖が記載されているかもしれません。

1855(安政2)年10月2日に江戸を中心として発生した安政江戸地震は最も被害が大きく、後の幕府の調査によると死者は約10000人に及んだと記載されています。これは直下型の大地震で、安政に多発した震度6を超える地震のうちの一つです。

f:id:nameto:20181225173427j:plain

今後心配されている南海トラフ地震も、最後はこの時に起きています。




因みに安政2年と言うと、当家の丹右ヱ門が6歳の時です。大正9年71歳で亡くなったので、それまでに親族にこの地震の話をしててもおかしくありません。結論、伝わってはいませんが仮に伝承されていたら歴史的大地震経験談として貴重なものになったと思います。







次いで1923(大正12)年9月1日南関東震源とした直下型の大地震

関東大震災です。
 

f:id:nameto:20181225174758j:plain
関東大震災写真集より




残念ながら当家では全く聞くことが出来ませんでした。しかし、以前もお話しした曾祖父末の妹の娘さんが「母から聞いてます。」との事で伺った処、家の裏に地割れが出来て高祖父助次郎・曾祖父菊蔵がそこに挟まってしまい、余震の揺れで穴が開き抜け出すことが出来たというお話でした。
調べたところ、マグニチュード7クラスの余震が6回も続いたそうです。
本当に恐ろしいです。



当家の話から脱線しますが、関東大震災により今の自分が存在しています。それは、母方の曾祖父に関係する話です。
母方の祖父米吉さんは80歳を超えてからパソコンで自分の人生での経験談家系図等を小説の様な形で作り、自分の子供たちに送付していました。自分がその存在を知り、目にしてから1年は経っていないほど。米吉さんは既に7年前に亡くなられています。

内容で自分が特に見いったのはご自身のルーツを探った話、お父さんが関東大震災で悲痛な思いをされた話、ご自身が戦争にいかれた事と戦時中の家族の生活です。
今回は、その中の関東大震災に着目していきます。


始まりは長男で一族の長であった米吉さん。実は戸籍上四男で、長女の妹さんが三女であり知らない兄が三人と姉が二人がいるとの始まりでした。
実は上の兄弟の方々と曾祖父妻の方は関東大震災の犠牲になっておりました。
米吉さんの母親は後妻になりますが、父親は震災前は一つの家族を持っていたのです。


父親の名は政助さん。
一人は幼くして亡くなった為、6人家族でした。
しかし、関東大震災で一家はメチャクチャになります。
その当時の悲劇の様子を書かれている為、以下原文のままに紹介致します。


『風と炎に追われ吾妻橋際までにげてきたが、保険証を家に取りに戻った。「お前たちはここで待っていろよ。」といってあったが、元に戻ったときにはもう居なかったという。後にこの母と子が川に飛び込んだのを近所の森田氏は見たという。(母の話)父は幾日も妻や子を探したが見つからず精魂つきて水沢さん(親族宅)にいった。乞食のような父を見て水沢氏は「やア乞食が来た。」と囃したのでカッとし水沢氏の頭を掴み天水桶に突っ込んだという。』

その後から政助さんは酒を覚えたそうです。
住む場所は崩壊し、一度に5人の家族と別れる事となり心中はかり知れません。
当時の画像検索すると、その恐ろしさに身がすくみます。地震だけではなく、火事による火災旋風でまるで空襲にあったようです。

いずれ南海トラフの大地震が来るとなると本当に想像したくありません。


そして1年後の大正13年に私の母方の曾祖母と結婚し、その翌年に米吉さんは産まれました。

時は流れ母、そして私と繋がっています。
枝分かれしていく系図を考えたら、一つの家庭の崩壊の後の米吉さんから今がある訳ですが、もし助かっていたら米吉さんからの母、自分達が存在しないということになります。

その一瞬で未来に産まれていく子孫が全く違ってくると考えると非常に大きなものなのだと感じます。



因みに政助さんは戸籍上、生まれたことも亡くなったことも分かりません。生まれの神田は関東大震災で焼失し、住んでいた浅草は東京大空襲で全ての記録を失いました。名前が辛うじて記載されているのは米吉さん戸主の再製された戸籍の前戸主と続柄の欄のみです。



話は戻り、記憶も新しい2011(平成23)年3月11日

東日本大震災
当時は20歳で春休みを迎えていました。ベッドの上でゲームをしていたら揺れが始まり、次第に大きくなり木造の家が激しく揺れて自分はいち早く外に出ました。丁度大学で学んだ環境学地震授業でP波とS波というものを思い出します。
P波=縦揺れの初期振動
S波=横揺れの本震(震度数)

大田区は震度5強でした。この時より、本の少し傾いたのか網戸が途中から引っかかってしまい、はまらなくなってしまいました。
自宅は高祖父助次郎さんが「末代まで大丈夫なように。」と大正末期、実際に練馬・小杉等の山にあるケヤキの木を厳選して丈夫な物を製材にかけて柱にし、土台から天井までを貫く通し柱にしました。現在戦災も避けられ築90年を迎えます。
因みにこの辺りで最古の自宅は築130年の平林さん宅。かやぶき屋根をトタンで保護し、今では貴重な中二階の造りが目に入ります。



以前、テレビで100歳超えの方が東日本大震災関東大震災に比べ「(東日本の)揺れはこんなもんじゃなかった。(関東の時は)この家がこーんな揺れた!」と話されていました。いかに直下型地震が激しいか分かります。
しかし、大正12年の大震災と東日本のを比べられるとは驚きです。


震災については以上ですが、自宅の歴史として当時どの様な事があったかを記録に残したり、語り継いでいく事は先祖を身近に感じたり災害の恐ろしさを改めて知れる大事な事だと思いました。





次いで死因についてです。
系図を作る上で、何時何が原因で幾つで亡くなったのかを聞き込みで調査します。

結果、直系は高祖父まで分かりました。

高祖父:地域の祭りの帰宅の際に自転車でぶつけられた交通事故が原因。84歳
曽祖父:幽門癌。72歳
祖 父:脳幹出血。65歳
 父 :喉頭癌。64歳

傍系(兄弟)では高祖父の兄弟は2名のみ、曽祖父の兄弟からは全員知る事が出来ました。
一族の享年を知っていくにつれて滑川家、特に当家は短命です。
妻を抜き22人中、90超えは1名・80超えは3名で、60~70代が殆どでした。

ぎんさんの娘さん達や、他の長寿の方の一族を見るとやはり長生きです。
自分は、生活習慣は勿論関係あると思いますが、ほぼ遺伝子で決まっているのではないかと思います。

余談で、ギネス記録のフランスのジャンヌ・カルマンさんは人類唯一の大還暦を迎えた122歳。117歳まで喫煙し、その後は「火を付けさせるのがかわいそうだから」と介助者を気遣っての禁煙でした。存命中、孫も亡くなったりしているので子孫からしたら親も祖父母も亡くなっているのに先祖が元気に生き続けているという不思議な状態でした。


話は戻り、
滑川家で唯一の90超えの方は曽祖父の弟さんで糖尿病の方でした。豆中心の食生活を最後まで送られていたそうです。
他、一人は喘息で祖父を除いたら後は皆癌でした。


父は喉頭癌ですが、酒はほぼ飲まずに喫煙は一切していないのに癌になりました。調べてみた所こんな統計があります。

喫煙との関連がもっとも高いのは喉頭癌であり、男性で95.8%の高値を示しています。これは禁煙することにより喉頭癌の発生をゼロに近づけることが出来ることを示しています。

5%以下の確率で患ったわけです。正直癌は治る事もあるので大丈夫であろうと考えていましたが、抗癌剤が体に合わなければ上手くはいきません。これは、何とも奇遇な話ですが曽祖父の相続の際に担当であった司法書士の先生が同じ喉頭癌を患っているという事を父の闘病中に知りました。その時85歳です。お互いに声帯切除手術を行っていまして、父はユアトーンという振動する機械を喉に当てて機械音声で話しますが、先生はフリーハンズという手術を受け普通に話すように喋っていました。ユアトーンだとどうしても片手が使えなくなってしまう為、ゆくゆくはこの手術を受ける予定ではありましたが体調が悪化した為しませんでした。
因みに先生は父と同じ抗がん剤が体に合った為軽快して7年程経っています。


この時は自分は面識が無かったですが、父が亡くなった時に連絡のやり取りをしている事を思い出し、パソコンのアドレスから連絡し先生とコンタクトを取りました。父と同じ病気であり、穏やかでユーモラスなので非常に親近感がある方でした。年齢関係なく、パソコン・スマホを使いこなして自分の1日何歩歩いたか等データでまとめていたり、ラインをしていたりととてもお元気です。


しかしながら、数か月に1回食事や自宅に来て頂いたりしましたが残念な事に今年亡くなったとのお知らせを受けました。父の丁度1年後です。
1年と短い間でしたが、貴重な縁でとても良い時間を過ごさせて頂きました。


人生、何時病気になるか亡くなるかは分かりません。一期一会でも、ちょっとした事でも良い縁となる事もあります。
そして、改めて健康のありがたみを感じます。

今回を振り返り、一つの人生最後まで濃く生きていきたいなと感じました。




次回は最後に、大晦日の活動を更新していきます。