大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

屋号

今回は屋号についてです。

呼び方は一つの項目に限らず
その土地に移り住んだ初代の名前、分家初代の名前、
職業、場所、等由来が様々な屋号が存在します。



地元には、
下駄屋・桶屋・鍛冶屋・篭屋などの職業の屋号。

惣助、六右衛門(ろくえむどん)、勇次郎(ゆうじさん)、太郎吉(たぁさん)等先祖の名前の屋号。

等があります。



当家は先祖の名前である丹右ヱ門(たいむどん)ですね。昔の円台、バケツ、木材や道具等には「丹」や「滑丹」と記載されて当家のものだと見て分かるようになっています。

そんなわけで以下親族、分家の屋号を紹介していきます。

昭和初期に分家した曾祖父姉、弟の家は当家から離れた土地に正面に向かい合う形で建ちました。姉の方の家は移築し現在はありませんが、当時は「前の家」「裏の家」と呼ばれていました。
前の家から当家の事は「大本家」、「表の家」(表とは本家の事)と呼ばれています。

続いて曾祖父妹さんの嫁ぎ先の家。
惣五郎さんが江戸時代に分家した家である「惣五郎爺屋」は、訛りで呼び方が
そうごろうじいや→そっごじいや→そっこうじんや
と呼んできます。
始めは「そこの新屋だから、そっこうじんや。」と聞いていましたが、調査を始めてから全く別の事実であることがわかりました。

二人目の妹さんの嫁ぎ先は大鳥居の海苔屋。
通称「大鳥居の家」です。
ここからは当家は「免田の家」と呼ばれています。というのも、前の浦地区は昔田んぼの税金が免除された為に、ここから「免田」と呼ばれたそうです。
前の浦は昔、舞の浦とも呼ばれ現在も舞の浦公園なるものもあります。
由来は、海が近かった為に鷺(さぎ)が舞っていたところから来たようです。

続いて末の妹さんは現港区である麻布(旧麻布区)に嫁ぎましたが、戦争の被害を酷く受け、こちらに移り住みました。通称「麻布の叔母さん」と呼ばれています。
調査を始めたときに、娘さんへ聞き込みをするため麻布の方まで行くことになるかと思っていましたが、この時に地元にいらっしゃった事が分かりました。
父の兄弟も、呼び方から麻布に住んでいると思っていたようです。



そして、明治期に分家した高祖父兄弟の家です。

当家の位置から向こうの川岸に住んでいた為、「向川岸(むこうがし)の家」と呼びました。


末の弟は森ヶ崎に分家したので「森ヶ崎の家」。



最後に三男の方ですが、分家というよりは当家が新たな土地に移った為、転籍前の家を引き継いだお宅です。本家は移動し、元の本家を新屋(しんや:分家の事)とした為、「置き新屋(じんや)」と呼びました。
こちらの方は入夫婚姻(今はない制度。女戸主の家に入り新たに戸主となる。その為、名字は妻の方になる。婿養子婚姻と違い妻の両親とは法律上親子にはならない)で横山姓となっています。

こちらの一族については全く情報がなく、入夫婚姻の事実を知ったのも今年の年始めに見つけた明治の戸籍から判明したことです。
というのも、昭和後半の控え帳を見ても横山さんの名が無くお付き合いは途切れており当時住まれていたお宅も昭和後期には無くなって公園となっております。その為、断絶してしまったのではないかと思い調査は困難でした。

氏神の三輪厳島神社(弁天神社)所蔵の明治の手作り地図を参考に、横山家周辺の当時から続いているお宅に小さな可能性をかけて手紙を送りましたが、結局返事はありません。

手掛かりを掴めず、どうしたものかと頭を抱えましたが、諦めきれずに何か方法はないか考えました。




そうだ、菩提寺(家のお墓がある寺)を見よう。



ここから調査は大きく発展していきます。