大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

遠縁の再会

以前の内容に書いた置き新屋についてです。

高祖父の兄弟子孫とはもう半世紀程付き合いはありませんが、その一族が何処に住まれているかは調査で判明していました。しかし、一人だけこちらの家の方については全く情報がありません。

二年前に最古である控帳の昭和15年の曾祖父末の妹さんの婚姻のものを長老に見て頂き判明した高祖父弟、丹右ヱ門三男の横山冨蔵さん。
その長男である方の名前までギリギリ高祖父の香典帳で確認出来ましたが、昭和31年のこの時が最後になりました。




そんなわけで、子孫の方と面会できた流れについて書いていきます。

長老の情報を元になんとしても特定したい、しかしながら昭和中頃からの控え帳に名はありません。ただ、横山に改姓しているという事実と、家は昭和30年代から無いという手がかりのみでは中々難しく、その近場に子孫の家がないか確認するも横山姓は一軒もありません。

もしかしたら断絶してしまったのではないかという思いが強まってきました。家が無くなり断絶してしまうことを戦前の旧民法では「絶家」といいます。
ちなみに親族が絶家した家に入り復興する事を「廃絶家再興」といいます。

例にすると、サザエさんの一家が海外移住等で全員いなくなり、ノリスケが磯の家(自宅)に入り「家」を続けさせるというイメージです。




そんな中、「そういえばお墓はどうだろか」という考えが浮かびました。当家は浄土真宗ですが、横山家は宗派が分かりません。調べてみるにこしたことは無いため、菩提寺の数百の墓石を片っ端から見て周りました。知らない別一族であろう滑川家の墓もいくつかありましたが、横山姓も当寺に多く見られ、ほぼ家紋は丸に違い鷹の羽(ちがいたかのは)です。

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墓石の見回りが終りそうになった頃、一つの横山家の墓石が目に入りました。よく見ると、家紋が当家と同じく丸に三ツ割木弧(みつわりもっこ)です。

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さらに墓石側面の施主を確認すると、冨蔵氏の長男の方の名が掘ってあります!これは間違いなく探している横山家の墓です!
今でも残っているということは管理する子孫がいることを意味します。様子としてはしばらくお参りに来られた様な形跡はありません。
でも見つかった事に感激しました!

この日には気づきませんでしたが、後日改めて確認した後に寺の年忌法要俵を確認しに行きました。
するとなんと長男の方と思われる法名の33回忌の施主の名が、長男の一文字を使った名前でした。これは間違いなく子孫の方です。
そして電話帳で調べて緊張しながら電話をするも使用されていないアナウンスが流れました。

更に別日、グーグルマップで住所を調べて自転車で15分程度の場所にあった為、家を確認しに行くと施主の名に記載されていた冨蔵氏の孫と思われる方の標識がありました。是非ともお会いして話を伺いたい!まずは怪しまれない為に手紙を書きポストに投函します。
2か月くらいでしょうか。全く音沙汰がありません。もしかしたら怪しまれてそのままにされたか、以前あった様にルーツ調べに否定的な方であるのかもと不安になります。

もう、直接伺うしかありません!
あらかじめ手土産と証拠となる冨蔵氏の名が記載されている書類を持ちインターホンを鳴らします。しかしながらいらっしゃいません。改めて別の日に行くことにしました。しかし中々会えません。

結局半年以内に6回程伺ったでしょうか。全くいらっしゃいません。もしかしたら入院?それとも入口のバリアフリー環境を見る限り施設通いをされているのか。最悪空き家になっている可能性も浮かんできました。でもここまで来て諦めきれません。

私はこの春に体づくりの為にジムに行きはじめました。夜勤明けの日にジムで19時辺りまで運動して帰りに明かりが点いているのかダメもとで見に行くことにしました。実はこれまでは午前中、昼過ぎ、夕方と伺いましたが、迷惑になってしまうと思い夜の時間は避けて行ってませんでした。

すると明かりがついています!何にも持ってきていませんが、せめて確認だけでもとインターホンを鳴らします。
すると男性の方が出てこられました。「以前、お手紙を送らせて頂いた者で…」と挨拶した所、「あぁ、飲んで忘れてたよ。ごめん。」と仰います。この時点で否定的な方ではないと確信しました。続いて先祖の方は冨蔵さんであるか、昔置き新屋と呼ばれていなかったか確認すると「そう!じいさんが冨蔵!」と明るく答えます。

遂に、ようやくお会い出来ました。一時期諦めていましたが探していた明治11年に生まれの高祖父弟冨蔵氏のお孫さんです。すかさず、何年まで存命で死因は何だったのか伺いました。昭和28年、72歳で交通事故で亡くなったとの事でした。手紙に写真や昔の資料が残っていたら見せて頂きたい事を書いていた為「残念だけど何にも残っていないんだ。ごめんね。」とそのまま戻られそうな雰囲気でしたので、せっかく面会出来たのにと思いスマホで撮っていた明治の戸籍を用意し「実は、ここの所当家の明治の戸籍が見つかりまして冨蔵さんも記載されておりまして…」と声をかけた所、「…上がってく?飲んでたから特に何もないけど。」と。まさかの展開です。有難くあがらせて頂きました。


夕食の時間である為、ホットプレートで焼き肉をされており、お酒と共にごちそうして頂けました。
私が調べた当家の情報を話しながら詳しく昔の話を伺います。現当主は78歳のお酒が大好きな方でした。なんと当家に来たことがあるとの事。父が生まれる1年前、昭和27年が最後に行った日との事。冨蔵氏が28年に亡くなられてから、お付き合いはほぼ無くなったそうです。どおりでそのあたりの年代から控帳に横山姓が見当たらないわけです。そんな訳で、半世紀程の時を経て明治の分家と本家の子孫が再会したわけです。


置き新屋について伺うと「その土地には3本の木が生えていたから三本木って呼んでいたと聞いているよ。」と初めての情報が出てきました。残念ながら、ご当主が産まれた時にはもう無かったとの事。
色々と伺うと冨蔵氏の兄である家、向河岸の事を知っていました。何でも、海苔時代にその親族と付き合いがあったとの事で、今はもう知らないそうです。
因みに冨蔵氏について伺うと「酒と博打が大好きだったな。ただ、女遊びだけはしなかった。事故に遭った日も博打をしに梅屋敷(京急線)に行ってタクシーにぶつけられた。その瞬間を向河岸の親族が目撃して、『なんか似ているな』と家に連絡が来てそれで分かったんだ。事故の時は信号機が無かったけど、この事故を境に信号機が設置されたんだよ。」と、当時の大変貴重なお話を聞かせて頂きました。

滑川家については残念ながら冨蔵氏はあまり話さない方であり、その息子さんも同様な方であった為に伝承は伝えられていませんでした。
横山家のお話も伺うと「お袋は埼玉から海苔で本家に奉公に来ていたんだよ。」と更に知られざる情報を聞けました。
どんどん新たな情報が増えて嬉しい限りです。
他には旅行が好きとの事で、私自身も1、2か月には遠出するくらい好きな為話がはずみます。気づいたら21時30分手前で、2時間以上話していました。もう遅くなった為、ここでおいとまさせて頂きましたが「今度来るときは家の目の前に自転車を止めるといいよ。」と言って下さりました。中々陽気な方で楽しい時間を過ごせました。



この日はダメもとであった為、別日に改めて伺い冨蔵氏が戸主の除籍謄本をみたいため委任状にサインして頂きました。
勿論、この時は資料も持っていき、前回のお礼として旅行で購入した群馬のお酒を手土産に伺いました。
最古の控帳を見て頂くとまさかの冨蔵氏の娘さんたちの嫁ぎ先の方々の名が記載されている事が判明しました。ご当主は喜ばれ、今で唯一付き合いがある兄弟の様に育った従兄弟の方(79歳)を紹介して頂きました。こちらの方は現役で働かれている為いずれ日を見て3人で会う事を約束しました。シフト次第ですがとても楽しみです。


最後に土地についてです。
元本家であった置き新屋は長老が結婚(昭和30年代)するときには無くなっていたと聞いていました。
謄本を見て判明したことですが、こちらは置き新屋から転籍した土地でした。

転籍の記録を見るとb>当家が建った昭和3年の次の年に長老が無くなったと言っていた土地に転籍したと記載されていました。
年代的に大正の大震災で被害を受けたのでしょうか。
つまり昭和4年には置き新屋は無くなっていたのです。元本家の家だった為、江戸時代から続く草ぶきの家であり初代は勿論、先祖はこの家から産まれていたのでどの様な家であったのか非常に知りたかったです。
戦災が酷かった地域ですので写真が残っている可能性は絶望的ですが、調べてみる価値は十分にありますね。

にしても転籍を繰り返されており、当時は東京府荏原郡東京市大森区、東京都大田区と名称が変わった事もあり、地番も4桁~3桁の数字のもので、大正・昭和初期の地図を細かく見ても当てはめるのが大変な作業です。土地の移り変わりについてはまだ整理しきれていない為、これから作業していく予定です。






しかしながら、この調査は無事努力が実った結果になりました。探し人が人柄が良く、いい関係性を築け、新たな情報を得ると共に貴重な繋がりにもなりました。ルーツ調べをして一番うれしい瞬間です。
遠縁ながら当家に来ていた親族の方なので、何とも不思議な気持ちです。
今後も定期的に調査や旅行等のお話をしにお邪魔したいと思っています。