NHK
整理してたら出てきました。
昭和47年にNHK取材で祖父が出ました。
夜の船大工というタイトル。丁度海苔養殖が終わって約10年が経った時です。
これはテープですので、音声のみ。映像は放送されている時に祖父が写った1シーンのみ写真で残ってました。
祖父は2歳の時に65歳で脳幹出血で急死したので、声が聞こえるのかと興奮しました。
結果ですが、「ザーザーブツブツ‥ザーザー。」という感じで、砂嵐音声のみが続き何とかアナウンサーのような語りが聞こえる程度でした。
これはがっかりです。存在価値はあるのか疑問に思う位のものでした。
NHKで映像が残ってないかネットで過去を調べましたが、古い映像が多く残ってる中、何故か全くヒットしませんでした。残念です。
ただ、この年代は組合長であった曾祖父が生きていたので、漁業補償のニュースでもしかしたら映っている映像があるかもしれません。曾祖父の生きた映像も見つかれば見てみたいものです。
日本紳士録
Wikipediaより
紳士録(しんしろく)とは、官僚、大企業の役員、芸術家など著名人のうち、存命で活躍している人物の情報を掲載した本を指す。
生年月日と出身地、最終学歴はもちろん、刊行時点での居住地、場合によっては家族情報や趣味などの個人情報が記されていることもある。「Who's Who」や「人名年鑑」とされていることもある。福沢諭吉が提案した。
とあります。
戦前はこちらに名を記載されることが社会的ステータスのようなものであったらしいですね。しかし、後に詐欺に使われる事が増え、個人情報の取り扱いからも記載拒否する人が増え、明治22年からの歴史は平成19年で休刊となりました。
そんな日本紳士録ですが、インターネットで見れる国会図書館デジタルアーカイブにて二代目助次郎の名前を調べたら記載されておりました。先代丹右ヱ門は無かったものの、昭和7年から見つかっています。
●は所得税
▲は当時の電話番号
です。
ちなみに、Wikiにあった学歴・趣味・家族構成等は載っていませんでした。同史料の中に、今では消された族称が載っている人もいました。
紳士録で名前が見つかったものの、新たな情報は当時の所得税と電話番号のみとなります。少々期待しただけに収穫は小さかったですね。
ちなみに、この電話は分家先で懸賞に当たったもので、「本家の方がよく使う」という理由から譲り受けたものだと長老から聞きました。
昔、家にあった壁掛け電話は近所の人もよく使ったそうです。
他、先祖を調べるルーツで大衆人事録・人事興信録というのもありまして、紳士録より詳しく情報が載っていますが、他では残念ながら当家の記録に繋がる史料はありませんでした。
滑川姓は戦国時代に茨城から秋田へ移動した記録はありますが、この東京の記録はありません。
人伝に聞いた話では、菩提寺の先代住職が鎌倉から来たと言っていたそうですが詳細は不明です。
恐らく徳川家と海苔採取業が関わっての事かと思いますが‥
他、戦前の内閣である立憲政友会の史料に滑川丹右衛門の名が該当しましたが、肝心のその史料が見付かりません。恐らく名前だけの記載でしょうが、気になるのでいずれ見つけて行こうかと思います。
というわけで、案外知らないものの図書館の史料に先祖が載っている可能性があるというお話でした。
気になった方はGoogle検索ツールの書籍という項目で先祖の名前を検索してみてください。
思わぬ発見があるといいですね。
分家
前回から早くも3ヶ月経過してしまいました。
この間に色々あり、一部記事を非表示にしました。
年が明けてからコロナの驚異で遠出も出来ず、モチベーションも下がりつつあります。
地元青年会の活動は当面自粛。祭礼も勿論中止です。無形文化財となっている水止舞も中止になりました。
昔から代々続いている行事の中止や、商売を辞めなくてはいけない方も増えており非常に厳しい世の中になってきました。今後観光業界も心配です。
そんなわけで、今回は分家についてです。
一族の繁栄には分家が重要になってきます。
最近、ふと考えたら当家は分家が少ないのではと思いました。
年代を遡っていくと、
江戸時代の分家は不明です。嫁いだ人が多かったのかな?
①明治に入って明治6年生高祖父の傍系は弟が3人。内、一人は入夫婚姻により姓が変わっています。こちらの系統は現当主が未婚の為断絶となります。故に2件の分家。
②明治35年生曾祖父の傍系、弟が2人。内、一つは現当主が未婚の為断絶。しかし、姉が婿養子婚姻をされています。その為2件の分家。
③大正15年生祖父の傍系は、1人が高祖父の関係に入ったので現在1件の分家になります。
④昭和28年生父の傍系、弟が2人。しかしながら、皆女性の為分家は無し。
そして、私弟が結婚すれば1件の分家になります。
明治に入ってから分かる限り(明治25年以降)だと、単純計算で5件~となっていますね。
昭和初期辺りまでの兄弟が多い時代でも、この数です。男性の生まれや早世の影響で大きく変わっていきますね。
しかしながら、少子化の世の中。今後は三人兄弟でも多い方になるため、核家族化の影響も含めて本家・分家という言葉も無くなってきそうですね。
因みに、戦後変わった民法上分家というものは実態ではなくただの通称になります。
現状、甥っ子でわかる限りの直系8代目になりますが、結婚や男児が生まれれば9代目に。女児のみだと、婿養子をとるのかどうか‥20年以上先の話ですが、ついつい考えてしまいます。
そして、自分が元気で長生きして、うまく甥っ子の子供が見れればぎり10代目を見れる事になります。その時は元号が新たに変わってる可能性もあり、海苔時代を知らない私が最年長になれば、これまで多くの方から聞いた話がより貴重なものになるでしょう。
そのようなわけで、一族の生き字引として、次世代の者に話を継いでいくのも面白い生き方かもしれませんね。まだまだ先の話ですが。
例え、それなりの年で最期の時を迎えても、調べた・聞き込みしてきた事は資料に残してあるので心配無しです!
よくスポーツでも言われる
継続は力なり。
先祖調査に擦り合わせると
継続、世代継承して行くことは力なり と感じたのでした。
祭礼中止
氏神の祭礼は勿論、地元の祭礼は中止になりました。
9月~の祭礼は分かりません。
コロナがまだまだ収束してませんが、仕事は通常通りあります。生活の場での福祉職はしかたありません。
その中、電車・バスで通勤してますが、未だにいい年してマスクもせずに数人で大声で喋ってるバカがいます。
マスクしないで口に添え物もせずにゲホゲホ咳をする大バカもいます。
しかも、手で押さえてその飛沫を受けた不潔な手で手摺などを触っり‥。
マスクをずっと顎にして、指をしゃぶったり、口に手を突っ込んでホジホジしたり、爪噛んで唾液が付いた汚い手で店の物や商品に平気で触ったり‥
そりゃ感染者が減らないわけですよ。
まともに努力している中、こんな下らない人間に染されたらたまったものではありません。
元より、普通の咳やくしゃみには雑菌がある為エチケットが出来て当たり前と思っています。
コロナ蔓延により、多少なりとも飛沫・接触感染・エチケットの常識が広まれば良いなと思いますが、そもそも人間性が低レベルの者は周りの迷惑や自分の行動を省みないので無駄ですね。
少々過激な発言かと思われますが、福祉関係の仕事をしていると、一切防止策をとらない者に対して呆れを通り越すものを感じているからです。
‥同業者でも気にしない不届きものがいますが、そこは人間の質の問題です‥。
しかし、夏場には収束して欲しいものです。悲しいことに廃業してしまう商売が多く、好きな旅行にも行けない為に古き良き老舗が減っていってくかもしれません。
SARSの時は正直記憶が無いほどですが、現在のコロナによる大変な生活を後々に記録すれば50年~後の子孫からした歴史的な出来事になります。
災害もあってみなければ中々普段の日常に感謝をすることを忘れがちです。
より、今迄の当たり前は幸せだったのだと痛感します。
お宝写真発見
先日家を整理した際に、もう無いかと思っていた昭和初期の古い写真が沢山出て来ました。
その中で貴重な海苔時代のものが複数あり、大喜びです。
その中の一つ、海苔が終った時の記念を浦守稲荷神社に奉納した写真がありました。
祖父はそれぞれ古い写真の裏に、年代や詳細を書き込んでくれているので当時のどのような背景で撮影されたかが良く分かるのでありがたいです。
写真の裏にはこの様に記されていました。
『昭和参十九年五月吉日 浦守稲荷神社の社殿の前にて、徳川時代より三百有余年の長きに渡り、先祖代々により営み受け継がれてきた全国随一の本場浅草海苔の名産地である大森漁業協同組合の漁業が昭和参十九年日本で初めてオリンピックが開催される為に、羽田空港と都心を結ぶ高速道路1号線建設の為に国と都に漁業権を買い上げられ我々組員は漁業補償によって先祖伝来の乾海苔採取業として最終のピリオドを打った。 東川丁場、甲東川一部、二部、浦守丁場、乙東川一部、二部、三部、森ヶ崎丁場 右の各丁場の名称と組合員の氏名の記念』
そして、当丁場19名の名が記載されていました。
漁場権放棄に関する議題で当時の漁業組合は荒れに荒れたそうです。小さい頃より海苔採取業を行ってきて、それが一切出来なくなると死活問題です。補償金は出るもののいつまで持つか分かりません。
因みに、都から補償金として330億円が決定し、世帯によって金額が決定していきました。
今年はオリンピックが延期しましたが、これは前回のオリンピックでの話。昔の写真をずっと見ているとそう遠くない事のように思えます。
船の錨
海苔が終わって約60年、蓬莱丸の錨と思われるものが今でも家にあります。
かなり錆が酷いです。
当時の海苔文化の物は文化財に指定されているため、資料館に寄贈するか悩んでいますが
家に現存する数少ない海苔時代の物のため
家に置いておくことにしています。
昔の物で、地域に寄贈したもので知っているのは大森第四小学校の餅つきに使用する臼だけです。
海苔の道具も寄贈したと聞いたような気がしましたが、事実確認ができずに叔父から聞いた話だと「海苔が終わったら毎日のように燃やしていたよ」と耳にしたときはがっかりしたものです。
海苔漁が出来なくなったとなれば無用の長物のためどんどん処分される海苔養殖の道具たち。
このままでは当時の文化の記録がなくなってしまうと危惧したのは大森第一小学校の教諭であった田口久雄先生。
この方の運動のお陰で、今でもいくつもの資料が残されています。
このように先人の苦労・生活・姿という歴史を残していくことを大事に思っている人がいるからこそ、文化財というものは残っているのですね。
昔からあるものを捨てるのは簡単、保存していくべきものを見極めて残していくというのも子孫にとって大切な事かもしれませんね。