大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

皇大神宮

編集中でかなり手付かずでした。
先月、中旬に三重県伊勢神宮の内宮といわれる皇大神宮に行ってきました。
当家に2枚の証書が残っています。

一枚は
二代目が本家新築の際に神楽殿にて祈祷を受けたもの。90年前ですね。
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壹圓=一円
昭和2年時だと大体2、3000円という記事を見ました。一日の大工の手間賃が4円、日雇い労働者が2円とおおよその事が記載されていましたが、中々当時と現代を比べる正確な数値を出すのは難しそうです。


変わってもう一枚は
三代目が第60回の式年遷宮に参加したというものです。

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20年に一度行われる神殿の立て替えで、現在は平成25年に62回の遷宮が行われています。これは1300年も続いているそうです。

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こちらが神楽殿。見事な造りです。
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ちなみに、
神宮まで五十鈴川駅から歩いて3kmほどでした。道中の町並みも十分楽しめます。
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赤福の店がありました。
創業宝永4年とは驚きです。
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一通り観光してから雨が降り始めました。
そして宿をとった二見浦まで向かいます。

無人の駅に着いたらバケツをひっくり返したように大雨が降った為、しばらく雨宿りしました。

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宿は素泊まり、貸し切り温泉付きの宿に泊まりました。海の近場の宿に泊まったら翌日の朝日を楽しみにします。

5年前に両親と一緒に行った静岡県白浜の見事な朝焼けは今までで一番綺麗な光景だと目に焼き付いています。


幸い、次の日は晴れて5時過ぎから歩いて向かい、海沿いの夫婦岩の朝日を楽しむことが出来ました。
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鎌倉時代から続くすごい歴史です。

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一通り堪能した後にチェックアウトし、再び夫婦岩の道を向かい、明治20年に造られた賓日館を観光。

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夫婦岩の奥の道を突っ切り伊勢水族館に行ってきました。
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お土産屋、食事処も色々とあります。
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水族館では面白いものが見れました。
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アザラシの赤ちゃんは好奇心旺盛でこちらをじっと見てきます。
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朝が早いと一日が長いです。観光も楽しみ、帰路につきました。今回判明したことは神棚にある「天照皇大神宮」の掛け軸が証書の日付でもあった為に、この時に貰ったんだと知り得ました。
いよいよ、所縁のある寺社は残すところ明治神宮高野山になりました。前者はいつでも行けるので先伸ばしにしています。
今年度中にはどちらも行ってこようと思います。

大森神社祭礼

先週日曜に今シーズン最後の祭礼外交に行ってきました。
同日に天祖諏訪神社の祭礼も行われていましたが、夜勤明けで昼に帰ってきたので、一休みして夕方より大森神社の祭礼に合流してきました。
ここの担ぎ方も江戸前神輿です。


こちらの神輿には太鼓があります。f:id:nameto:20190918175513j:plain
神輿が上がる前からお囃子の人が叩き始め、巡行は勿論休憩で御輿が下がるときまで代わる代わる叩き続けます。


以前紹介した旧東海道である美原通り周辺を巡行します。休憩時には享保元年創業である和菓子屋の餅甚さんのおもてなしがあり、美味しい羊羮を頂きました。

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次第に暗くなり宮入が近づきます。f:id:nameto:20190918180549j:plain



宮入前は一旦神輿を下ろし、
注意事項等を聞いた後に人が三人担ぎ棒に乗って一本締めを行い宮入に移ります。
地元で人が乗る神輿は初めて見ました。
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これで令和元年の祭礼外交は終了しました。
青年会では今月末に定例総会が行われます。

その後は大晦日や初午祭等の準備が始まります。
今年も残すところ3か月少しとなりました。月日が経つ事を本当に早く感じます。
陽気も冷えたので体調を崩さないようにしたいものです。

糀谷祭

本日は夕方より糀谷の祭礼に行ってきました。
同時に近場の仲西天祖神社の祭礼あるため、手分けしての参加です。

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始めは担ぎ手がかなり少ないために全く抜けられずでしたが、中盤から人が増え始めて宮入の際はぎっしりでした。

元々膨らんでいた左肩はかなり痛かった為に右肩中心に担いでいました。
帰宅した今見たらかなりぽっこりです。後に響かないようによーくマッサージして寝ようかと思います。


明日は糀谷、浜竹、仲西の三社祭に合わせて子安八幡の祭礼もあります。雨予報となるため、過酷なパレードになりそうです。

私は仕事の為明日は不参加です。
最後に糀谷の大御輿を。本日は中御輿の巡行でした。
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江戸時代の紙位牌

当家の仏壇の引き出しに、法名(戒名)が書いてある紙位牌が複数見つかってから3年と経ちません。


見つかった経緯ですが、仏間の整理の時に『何か引き継がれていない古いものがあるのでは?』と期待を込めて探ったところ、仏壇の隠し引き出しというものに気付きました。

ドキドキして引き出しを引くと、ビニール袋に古い縦長の紙が沢山入っているものが出てきました。
それこそが新しくても大正9年のもので、最古は元文4年(1739年)の紙位牌でした。

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元文4未十月九日 尺妙意信女

以前の記事にも書きましたが、江戸~明治にかけての年月日では元号の次に干支が記載されているものが殆どです。

尺は現在では釈(旧字:釋)。浄土真宗では亡くなったら皆、お釈迦様の弟子になるというところからきています。
そして妙は女性の法名によく見ます。
信女は男だと信士。これは位号といいます。

信士、信女→居士、大姉(たいし)→大居士、清大姉

の順に位が高いです。
子供だと童子(女)、孩児(女)、嬰児(女)となります。

また、お寺や社会に貢献すると院号なるものもつけられます。こちらは法名の頭につきます。

例:○○院釋△△居士

△の部分には、生前の名前(俗名)ともう一文字その人を表すような字が使われます。
三代目までの法名を例にすると、

初代丹右エ門:釋丹嶺
二代目助次郎:釋助蒙
三代目菊藏:釋菊養
この上に院号、下に位号がつけられております。

ちなみに、法名(戒名)をつける際はかなりの金額が必要で、院号をつけるとなると更に驚くくらいの金額が必要です。
浄土真宗は費用の面だと良心的であるそうですが、正直お寺、住職によると思います。



話は戻り、
確認すると過去帳に無い名前の紙位牌が多くありました。過去帳菩提寺で弔った際に名が書かれるので、旅先で亡くなった等の事情で他のお寺で供養された際は過去帳には記載されません。


新たな発見があったと喜びは束の間、見て分かるように亡くなった日・法名しか記載されていないため名前も続柄も享年も何一つ分かりません。これではしっかりした系図も追記出来ません。
何故に生きていた時の名前を尊重せずに、亡くなった後につける訳のわからない名前を尊重するのか分かりません。
先祖供養の風習は残っているのに、誰の何番目の子供で誰であり何歳まで生きたのかを子孫に全く分かるようにしないのも不思議な話です。過去帳の備考にも「父」や「子」の記載だけでは全く参考になりません。

ただ、法名と死亡年月日のみの情報で、何も知り得ない子々孫々が祀り続けていくというのも不思議です。


この中で、ひとつだけ新たな情報が分かった紙位牌がありました。

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法號 釈授與信士 不退位
寛延二巳己天 寛政一二申年亀四十九歳

唯一享年が記載されており、49歳で亡くなっていることが分かりました。

ただ、これは寛延2年に生まれて寛政12年で亡くなったのか、寛延2年に亡くなり寛政12年に50回忌をしたということなのかどちらの見方も出きるため詳細は不明ですが、確実な事は「49歳で亡くなった」ということ。
これで過去帳リストに新たに追記することが出来ました。



生前の名前や享年が分からなくとも、現在発行できる戸籍(特に明治期)で生年・名前・続柄が分かる事が出来ますが、江戸時代となると不可能です。
特に江戸時代は子供の時に亡くなる方が多く、傍系の子供の可能性もありますので、例え「子」と記載してあっても直系の子供とは限りませんので注意です。


そんなわけで、実家に仏壇がある方は隠し引き出しに思わぬ先祖に関するお宝が眠っているかもしれないので調べてみて下さい。

子供映画会

24日の土曜日に青年会主催での子供映画会を行いました。
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今年は仕事の都合でほぼ終わりの時に神社に到着です。

本来ですと、昼過ぎに子供のお菓子の振り分け・神楽殿へのスクリーン立て・ブルーシート敷等の現場作りを行います。

今年はリメンバーミーを上映しました。
去年はミリオン大脱走
毎年何を上映するかは数ヵ月前より役員会で決定していきます。

私が小さかった頃はここで『もちもちの木』を見た覚えがあります。
見ていた側が成長し、見せる側に変わる。世代交代ですね。

今年は子供だけで108人来てくれました。親御さんも会わせるとかなりの人数です。年齢は小学校低学年が多く、中学以上となるとさすがにいませんでした。


ちなみに、映画会の流れですが受け付け(性別、学年、人数)を行ってからクジを一枚貰い、お菓子とジュースを受け取ってからブルーシートへ座ります。
ぱきっと折ると発光する棒も貰えます。

ブルーシートの後ろにはパイプ椅子も用意してあるのでお好きなように座れます。

上映後は受付の時に渡したクジで、マックの券等が当たる抽選を行って終了です。


勿論全て無料であり、地元の方の支えで行えている行事です。多くの人に見て、喜んで貰えるとやりがいがあります。
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右衛門 左衛門

ルーツ調査において戸籍を見れば自分の両親、更にその両親、そのまた両親と遡っていけば大抵幕末生まれの先祖まで判明します。

江戸時代の人名でよく~右衛門、~左衛門といった「衛門」が付く名前の人は時代のイメージで浮かんできます。

今回はその「衛門」について着目していきます。


起源を辿れば800年代まで遡ります。朝廷に使える「衛門府」という官職(役所)があり、左右二つに分かれていたので右衛門府左衛門府となっていました。古代の官職はかなりの権威を持ちます。これに従事した方が右衛門・左衛門の名を名乗った事が始まりだそうです。
鎌倉、室町になると武家の方が名乗り、時代は流れて特に先祖が衛門府に従事していなくとも関係なく、農民でも名乗る方が増えていきました。

なので、先祖の名に右衛門・左衛門が付いていても誰もが遥か昔の先祖が官職であったとは言えません。

そんな訳で、私の直系の右衛門・左衛門を紹介していきます。ちなみに、ブログ名を丹右ヱ門にしているのは、墓石・戸籍に沿ってつけました。ヱも衛も同様ですが、これはワ行のえなので、「うぇ」と発音します。


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父の母の実家、田中七右衛門。
屋号で「しちよめさん」と聞いています。大分なまっていますね。

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母の母の父の父の父、小沢市朗左エ門。
戸主は並木辰藏なので婿養子婚姻ですね。
母の名が記載ありませんが、これは改正原の戸籍に記載がなかった為不明というパターンです。妻が江戸時代生まれで明治始めに亡くなっている場合、未記載ということがよくあります。

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上の並木辰藏の養父の養父並木重左エ門。
並木家は二代続けて養子。辰藏の養父は「養嗣子」です。養子と違う点は、家督相続(跡継ぎ)の為にとった養子という所です。

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母の母の母の母の父、喜右ヱ門。
更にその父治五右ヱ門。
文政生まれの隠居した父が記載されています。更に、続柄欄にその父である治五右衛門が記載されています。生まれは1700年前後ですね。

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そして最後に
私の父の父の父の父の父の父、丹右エ門こと元次郎。
上の図と見比べて下さい。

本来、記載されている続柄の欄が空白です。家系図を作る上ではこれはかなり痛いです。過去帳を見る限り、先代は安政年間に早死にしています。その為でしょうか?
恐らく丹右エ門であると想像できますが、史書に記載されている江戸時代の家系図を見ると継がれている○代目○右衛門という名でも、途中その名を継いでいない当主もいるので、一概に確実とは言えません。

最近、母方のルーツを辿り茨城と埼玉に除籍謄本の請求をして郵送にて手元に届き、これで直系である全ての戸籍を揃えることが出来ました。
家庭状況にもよりますが、やはり明治の戸籍が残っていると1800年前半は楽々遡れますね。一番古くて130年前の戸籍です。

ちなみに、除籍謄本の郵送ですが先に何通現存しているか確認して頂いてから準備、必要物品を揃えて郵送という流れでしたが、一ヶ所の役所ではメールでの問い合わせに「個人情報保護の観点から検索は出来ない。」と返事が来ました。遠いから問い合わせているのであって、何通該当するか分からない以上、定額小為替(750円)も買えません。

直系であることが証明できるのに、120年以上前に亡くなっている人に対して「個人情報」って何なんですかね? 

違反した人間の刑を厳罰にすることはせずに、全ての事において、何でもかんでも「個人情報!個人情報!」なんて融通のきかない時代になったものです。
  

仕事の監査でも「これは個人情報!こっちも個人情報!全て隠して!鍵閉めて!」なんて何かに取り憑かれいるかのごとく、小さな小さな事にも難癖つけてきますが、そんなことしてたら多忙な職場は回らないし、やることが増えすぎてスムーズにいかず、本来の目的って何だろうなと毎回考えてしまいます。


個人情報といえば、初の戸籍である明治5年式(壬申)戸籍も直系のみ見えるようにすればよいのに全ての人に対して絶対閲覧不可!永久封印!なんて極端な通達になりましたね。

更に寺の過去帳では、江戸時代に生まれて江戸時代に亡くなった方でも「個人情報」で一般の閲覧は厳しく規制されています。


この先更に狂ったようにこの「個人情報保護」がエスカレートすると先祖調査するにおいてかなりやりづらく、また今見れる資料が見れなくなる可能性もあります。

なので、除籍謄本は廃棄される前に辿れるだけ全て出して保管!
先祖調査はお早めに!
ということをお勧め致します。

蒲田八幡祭礼

大分遅くなりましたが、月始めに蒲田八幡神社の祭礼に行ってきました。朝7時30分出発で向かいます。
こちらは以前お話しした江戸前担ぎです。

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昼過ぎになると京急蒲田駅のアーケード内を進んでいきます。ここでは、拡声器で「○○会様!」と呼ばれ、その団体が花棒という神輿前方の担ぎ棒に集まって担ぎます。1分も無いくらいでしょうか、

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次々に「○○青年会様!」と呼ばれていくので頻繁に入って抜けてを繰り返し、巡行中一番熱くなるところです。

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そして蒲田駅の目の前を一周し神社へと戻って行きます。他の町会神輿も複数出ており、物凄い見物客の量でした。


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駅の近くで和太鼓の演奏もやっていたので少し見ていきました。和太鼓の身体を突き抜けるような音は非常に魅力的です。いつか和太鼓をやってみたいと思いつつ、以前調べたときにレッスン代が高額であった為諦めた事がありました。人生の幅を増やしたいのでいずれ挑戦して行こうと思います。

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今週は萩中の祭礼です。仕事で参加できませんが、こちらも羽田同様ヨコタ担ぎです。


萩中といえば、二代目である高祖父の奥さんである大山いそ氏の故郷です。入籍後の明治の戸籍に番地記載はなく、「羽田村大字萩中」としか書いていないので、現在も家が続いているかは不明です。
かなり裕福な家ということを聞いていますが、自宅にある昭和初期の香典帳や控帳の大山姓の名を控えて大山宅へ訪問して発見したいと思います。特定できて、数世代遡れば御の字です。