大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

海苔舟

久々の投稿になりました。
今回は海苔舟についてお話します。

海苔漁業は「べかぶね」という小舟に乗り、手作業で行います。海苔の収穫期は11月~4月程。早朝の寒い時に一斉に船が沖に向かって進んでいきます。
暖房器具が当たり前の様にある現代、昔は極寒の中の作業が現代以上にいかに過酷だったかが想像できます。
毎日朝起きて7時前には雨戸を開けたりする時に「海苔漁家だった頃はこの寒い中、海に行って冷たい海に手を入れて作業なんて自分にはできるかな・・。」と思ったり当たり前の様に食べている海苔が過酷な作業での賜物と考えると、知らなかった時よりありがたみを感じて食べれるようになったり、今は失われたものの先祖代々伝統の海苔漁業を必死にやってきたのだと誇りに思ったりしています。



漁の際、離れた場所ではエンジンつきの大きな海苔船(親船)に小舟を何隻も乗せて沖まで向い、そこで作業をします。
因みにべかぶねより少し大きな機材等を乗せるちゅうべかというものもあります。




当家では聞き込みや資料を調べ、知る限り3隻の舟を造っています。



名は蓬莱丸(ほうらいまる)。



蓬莱とは古代中国で不老不死の仙人が住む山を指すそうで、竹取物語かぐや姫が求婚者たちへの無理難題の一つで「蓬莱の珠の枝」というものを求めました。



船の写真ですが、
現存しているのは僅か数枚。それも、一番最後のものです。
唯一、昭和の初めに造ったと思われる蓬莱丸の大きな写真が一枚だけありました。

それがこちらです。


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右から2番目が高祖父の助次郎さん。
写真中央辺りの子供が大正15年生まれの私の祖父、昇です。大体5歳くらいとして、撮影年数は推定昭和3~5年と思われます。そして場所は羽田沖で撮影されています。


船が完成し、初めて海に浮かべることを船おろし(進水式)といい、親戚・近所の方・漁師仲間が集ります。始めに御神酒(おみき:祝いの酒)を船に供えて神主が祝詞(のりと:神に拳上する言葉)を上げる。そして港から船をだし、船にのっている人が陸にいる人達に向かって餅や菓子を投げて大いに祝います。これには子供たちも大喜びされました。

こちらの船が知る限り一番古い海苔船です。
郷土資料で当家取材による聞き書きがあり、そちらを参考にすると、大正末期にゴセキ型(幅一丈5尺)の大船を造り焼玉(エンジン)を付けたと書かれていました。恐らくこちらの前の船かと思われます。


写真は進水式で羽田沖に出たもので、聞き込みによると大阪のお得意さんが丁度こちらに来ていた時に、当家の進水式があるので急いで乗られたなんて話がありました。昔の写真のエピソードは聞かなければ分からないので貴重な話です。


少し脱線して…
写真はものによって面白いエピソードがあります。細かいことは忘れましたが、幕末に武士達がフランスに訪問する際にエジプトに寄りスフィンクスの前で写真を撮りました。

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この写真ですが、実は面白いことにスフィンクスのあご下に一人よじ登ってた人がいましたが、撮る瞬間にずり落ちてしまい写真には写らなかったというエピソードです。

ただ見ただけでは分からない、本当に一枚の写真には色んな物語がつまっているんだなと思います。





話は戻り、2隻目は写真は現存しておりませんが「大森の船大工」の本を参考に見つけました。地元の船大工によりつくられた造船記録によるもので、親族も合わせて当家の2隻の海苔船の記録も残っていました。


滑川舟エ門方:昭和25年5月7日【蓬莱丸】5尺7寸と記載されていますが、

崩し字や略字で記載してあった為か、丹が舟と間違えて記載されていました。


そして、最後の船。
滑川菊蔵:昭和34年9月14日【船名不明】(7尺)造船

曽祖父名義で船名の記載はありませんでしたが、これは祖父が造船した第一蓬莱丸のことであると思います。

そしてその限られた写真、進水式の写真です。


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まさか、このあと数年で海苔漁業が終焉を迎えるとは思いたくは無かったでしょう。祖父は海苔漁業に対して積極的で仕事が非常に早かったと聞きます。

終焉した後はしばらく釣り船をされていたそうですが、結果的には船は売ってしまったとの話です。


そして海苔道具に関して。当家は大々的に海苔漁業を営んでいた為大量の海苔道具がありました。小さい時に郷土資料館や学校に寄付したと聞いた気がした為、探し続けていましたが先日叔父(当時幼少期)に話を聞いたところ海苔終焉後毎日のように燃やされ、また風呂の燃料にしていたとの事実を聞き、なんてもったいない事を…とがっかりしました。

一大産業が終えてしまい場所だけとる無用の長物となってしまったのでしょう。今では、何故かかろうじて船の錆びたイカリだけが屋根の下に転がっています。




さて、以上になりますが地元海苔漁家の有力者、若手育成の為に結成された東友会という団体があります。
こちらは歴史のある会で、最後の海苔漁家の集まりである貴重な団体です。父の跡を継ぎ、会の一員として本日新年会に出席してきました。会員としては初めてですが、神社や青年会の活動を通し皆知っている方ですが改めて挨拶させて頂きました。それは次の記事にてお話していきます。