大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

災害・死因

体調不良が続きしばらくぶりになりました。
今回は家の災害の歴史と、先祖の死因についてです。


自宅の過去帳を眺めていると、とある日に2名が亡くなっている事が分かりました。一人は子供、一人は掛人(かかりゅうと:居候、未婚の兄弟)と記載されています。

さて、ここで考えられるのは何かしら事故があったかまたは災害があったのかと頭をよぎります。その没年月日は、



1856(安政3)年8月25日

調べてみたところ、なんとヒットしました。
それは



安政の台風及び
安政3年の大風災
というもの。

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当時の瓦版

江戸付近に強い勢力の台風が通過した事により、江戸の街一帯が暴風・高潮の被害を受け、その暴風雨に加えて火災が発生し被害拡大。
この台風の死者は資料によるものの、推定10万人とされてる日本の風水害としては過去最悪の被害でした。
もしかしたら、この災害の犠牲になった可能性が高いと思われます。


そしてその前年にはかの有名な安政の大地震がありました。
都内の方で過去帖を見ると、この日にご先祖が記載されているかもしれません。

1855(安政2)年10月2日に江戸を中心として発生した安政江戸地震は最も被害が大きく、後の幕府の調査によると死者は約10000人に及んだと記載されています。これは直下型の大地震で、安政に多発した震度6を超える地震のうちの一つです。

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今後心配されている南海トラフ地震も、最後はこの時に起きています。




因みに安政2年と言うと、当家の丹右ヱ門が6歳の時です。大正9年71歳で亡くなったので、それまでに親族にこの地震の話をしててもおかしくありません。結論、伝わってはいませんが仮に伝承されていたら歴史的大地震経験談として貴重なものになったと思います。







次いで1923(大正12)年9月1日南関東震源とした直下型の大地震

関東大震災です。
 

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関東大震災写真集より




残念ながら当家では全く聞くことが出来ませんでした。しかし、以前もお話しした曾祖父末の妹の娘さんが「母から聞いてます。」との事で伺った処、家の裏に地割れが出来て高祖父助次郎・曾祖父菊蔵がそこに挟まってしまい、余震の揺れで穴が開き抜け出すことが出来たというお話でした。
調べたところ、マグニチュード7クラスの余震が6回も続いたそうです。
本当に恐ろしいです。



当家の話から脱線しますが、関東大震災により今の自分が存在しています。それは、母方の曾祖父に関係する話です。
母方の祖父米吉さんは80歳を超えてからパソコンで自分の人生での経験談家系図等を小説の様な形で作り、自分の子供たちに送付していました。自分がその存在を知り、目にしてから1年は経っていないほど。米吉さんは既に7年前に亡くなられています。

内容で自分が特に見いったのはご自身のルーツを探った話、お父さんが関東大震災で悲痛な思いをされた話、ご自身が戦争にいかれた事と戦時中の家族の生活です。
今回は、その中の関東大震災に着目していきます。


始まりは長男で一族の長であった米吉さん。実は戸籍上四男で、長女の妹さんが三女であり知らない兄が三人と姉が二人がいるとの始まりでした。
実は上の兄弟の方々と曾祖父妻の方は関東大震災の犠牲になっておりました。
米吉さんの母親は後妻になりますが、父親は震災前は一つの家族を持っていたのです。


父親の名は政助さん。
一人は幼くして亡くなった為、6人家族でした。
しかし、関東大震災で一家はメチャクチャになります。
その当時の悲劇の様子を書かれている為、以下原文のままに紹介致します。


『風と炎に追われ吾妻橋際までにげてきたが、保険証を家に取りに戻った。「お前たちはここで待っていろよ。」といってあったが、元に戻ったときにはもう居なかったという。後にこの母と子が川に飛び込んだのを近所の森田氏は見たという。(母の話)父は幾日も妻や子を探したが見つからず精魂つきて水沢さん(親族宅)にいった。乞食のような父を見て水沢氏は「やア乞食が来た。」と囃したのでカッとし水沢氏の頭を掴み天水桶に突っ込んだという。』

その後から政助さんは酒を覚えたそうです。
住む場所は崩壊し、一度に5人の家族と別れる事となり心中はかり知れません。
当時の画像検索すると、その恐ろしさに身がすくみます。地震だけではなく、火事による火災旋風でまるで空襲にあったようです。

いずれ南海トラフの大地震が来るとなると本当に想像したくありません。


そして1年後の大正13年に私の母方の曾祖母と結婚し、その翌年に米吉さんは産まれました。

時は流れ母、そして私と繋がっています。
枝分かれしていく系図を考えたら、一つの家庭の崩壊の後の米吉さんから今がある訳ですが、もし助かっていたら米吉さんからの母、自分達が存在しないということになります。

その一瞬で未来に産まれていく子孫が全く違ってくると考えると非常に大きなものなのだと感じます。



因みに政助さんは戸籍上、生まれたことも亡くなったことも分かりません。生まれの神田は関東大震災で焼失し、住んでいた浅草は東京大空襲で全ての記録を失いました。名前が辛うじて記載されているのは米吉さん戸主の再製された戸籍の前戸主と続柄の欄のみです。



話は戻り、記憶も新しい2011(平成23)年3月11日

東日本大震災
当時は20歳で春休みを迎えていました。ベッドの上でゲームをしていたら揺れが始まり、次第に大きくなり木造の家が激しく揺れて自分はいち早く外に出ました。丁度大学で学んだ環境学地震授業でP波とS波というものを思い出します。
P波=縦揺れの初期振動
S波=横揺れの本震(震度数)

大田区は震度5強でした。この時より、本の少し傾いたのか網戸が途中から引っかかってしまい、はまらなくなってしまいました。
自宅は高祖父助次郎さんが「末代まで大丈夫なように。」と大正末期、実際に練馬・小杉等の山にあるケヤキの木を厳選して丈夫な物を製材にかけて柱にし、土台から天井までを貫く通し柱にしました。現在戦災も避けられ築90年を迎えます。
因みにこの辺りで最古の自宅は築130年の平林さん宅。かやぶき屋根をトタンで保護し、今では貴重な中二階の造りが目に入ります。



以前、テレビで100歳超えの方が東日本大震災関東大震災に比べ「(東日本の)揺れはこんなもんじゃなかった。(関東の時は)この家がこーんな揺れた!」と話されていました。いかに直下型地震が激しいか分かります。
しかし、大正12年の大震災と東日本のを比べられるとは驚きです。


震災については以上ですが、自宅の歴史として当時どの様な事があったかを記録に残したり、語り継いでいく事は先祖を身近に感じたり災害の恐ろしさを改めて知れる大事な事だと思いました。





次いで死因についてです。
系図を作る上で、何時何が原因で幾つで亡くなったのかを聞き込みで調査します。

結果、直系は高祖父まで分かりました。

高祖父:地域の祭りの帰宅の際に自転車でぶつけられた交通事故が原因。84歳
曽祖父:幽門癌。72歳
祖 父:脳幹出血。65歳
 父 :喉頭癌。64歳

傍系(兄弟)では高祖父の兄弟は2名のみ、曽祖父の兄弟からは全員知る事が出来ました。
一族の享年を知っていくにつれて滑川家、特に当家は短命です。
妻を抜き22人中、90超えは1名・80超えは3名で、60~70代が殆どでした。

ぎんさんの娘さん達や、他の長寿の方の一族を見るとやはり長生きです。
自分は、生活習慣は勿論関係あると思いますが、ほぼ遺伝子で決まっているのではないかと思います。

余談で、ギネス記録のフランスのジャンヌ・カルマンさんは人類唯一の大還暦を迎えた122歳。117歳まで喫煙し、その後は「火を付けさせるのがかわいそうだから」と介助者を気遣っての禁煙でした。存命中、孫も亡くなったりしているので子孫からしたら親も祖父母も亡くなっているのに先祖が元気に生き続けているという不思議な状態でした。


話は戻り、
滑川家で唯一の90超えの方は曽祖父の弟さんで糖尿病の方でした。豆中心の食生活を最後まで送られていたそうです。
他、一人は喘息で祖父を除いたら後は皆癌でした。


父は喉頭癌ですが、酒はほぼ飲まずに喫煙は一切していないのに癌になりました。調べてみた所こんな統計があります。

喫煙との関連がもっとも高いのは喉頭癌であり、男性で95.8%の高値を示しています。これは禁煙することにより喉頭癌の発生をゼロに近づけることが出来ることを示しています。

5%以下の確率で患ったわけです。正直癌は治る事もあるので大丈夫であろうと考えていましたが、抗癌剤が体に合わなければ上手くはいきません。これは、何とも奇遇な話ですが曽祖父の相続の際に担当であった司法書士の先生が同じ喉頭癌を患っているという事を父の闘病中に知りました。その時85歳です。お互いに声帯切除手術を行っていまして、父はユアトーンという振動する機械を喉に当てて機械音声で話しますが、先生はフリーハンズという手術を受け普通に話すように喋っていました。ユアトーンだとどうしても片手が使えなくなってしまう為、ゆくゆくはこの手術を受ける予定ではありましたが体調が悪化した為しませんでした。
因みに先生は父と同じ抗がん剤が体に合った為軽快して7年程経っています。


この時は自分は面識が無かったですが、父が亡くなった時に連絡のやり取りをしている事を思い出し、パソコンのアドレスから連絡し先生とコンタクトを取りました。父と同じ病気であり、穏やかでユーモラスなので非常に親近感がある方でした。年齢関係なく、パソコン・スマホを使いこなして自分の1日何歩歩いたか等データでまとめていたり、ラインをしていたりととてもお元気です。


しかしながら、数か月に1回食事や自宅に来て頂いたりしましたが残念な事に今年亡くなったとのお知らせを受けました。父の丁度1年後です。
1年と短い間でしたが、貴重な縁でとても良い時間を過ごさせて頂きました。


人生、何時病気になるか亡くなるかは分かりません。一期一会でも、ちょっとした事でも良い縁となる事もあります。
そして、改めて健康のありがたみを感じます。

今回を振り返り、一つの人生最後まで濃く生きていきたいなと感じました。




次回は最後に、大晦日の活動を更新していきます。

海苔のふるさと館・消えゆく老舗

本日は気になるものを確かめると同時に、海苔のふるさと館の職員の方に自分が調べた海苔漁家の歴史をお話に向かいました。 



東京モノレール昭和島付近のふるさと浜辺公園。京浜急行大森町からでも徒歩20分もしないで行けます。(遠くからくる人はこちらからの方が古い商店が並ぶ美原通りを通っていくためおススメ)2008年に出来た公園で、埋め立てでの人工でありますが、砂浜があり都内では初めての区立海浜公園です。

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去年から10月にしながわおおた水辺の観光フェスが開催されました。こちらの公園ではドローン体験・ビーチスポーツ体験にライブスタジオ・キッチンカーが揃い、モノレール天空橋駅からは浜辺公園までの船が出たりイルミネーションだったりで、最後には花火2000発でしめるという大々的な祭りでした。東睦会が神輿を新調されたという事でお披露目も見れたそうです。
因みに今年は花火は難しく光と噴水のショーでした。空港も近く、高さ制限があったりと色々問題があるそうで・・・
観たかったのですが、自分は今年も合わせて仕事の都合で行けず残念です。
青年会でお話した時に、主催側の区議会員の塩野目さんは「リゾート地の様にしたい。」と仰っていました。

以前は売店のみでしたが、今ではレストハウスが出来たりと、どんどん憩いの場として魅力が上がっていると感じます。



そして道なりに進むと、海苔のふるさと館が見えます。丁度10周年です。


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中に入ると立派な木造の海苔船が目に入ります。


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昭和30年代造船の最後の大森の海苔船、伊藤丸(全長13m)です。

海苔漁業が終わった後は釣り船として活躍していたそうです。

昔は何百隻と存在していたであろう海苔船が今ではこの1隻のみ。かつて一大文化を誇った海苔漁業でしたが、保存しなければ消滅してしまうという例の一つですね。しかし、立派です。勿論重要有形民俗文化財に指定されています。

当家では調査した限り3隻造船していますが、それは別の機会でお話致します。



中に入り、館内のライブラリーにある資料をいくつか確認していた時に職員の方から声を掛けられました。以前、こちらで地元の昭和の写真展をしていた時に担当をされていた三好様でした。せっかくなので、時間に余裕が出来たら作成した資料をお見せしたい事を伝え、その後にノートパソコンにて説明させて頂きました。結果、喜ばれて何よりでした。その後も分厚い史料を1時間ほど眺め、お昼が過ぎていた為空腹と眠気で参ったので、読み終えた後そそくさと挨拶し館を後にします。



帰りは老舗寿司屋で食べていこうと思い美原通りに向かいます。
美原通りは旧東海道。かつて江戸と京都までを繋いでいた参勤交代の大名行列にも使われた重要な街道。
昭和2年に拡幅改修、第一京浜国道となりました。



そんな美原通りにあるのは以前紹介した餅甚さんです。

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道なりに進み小さい橋を渡り、道が二手に分かれ左に曲がります。
こちらは旧羽田道、するがや通りと言います。


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更に左に曲がります。

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するがやと言うのは、かつて駿河屋という旅籠があったことが由来だそうです。


そして目的の日の出寿司に到着。
祖父の法事、父の一周忌で使わせて頂きました、江戸前寿司の老舗です。


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カウンターで気のいい板長さん。鉄火丼を注文し、昔の話をしながら出来るのを待ちます。
値段は中々ですが、他では楽しめない味です。今回は奮発しました。

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お勧めのネギトロ巻きもとても美味で、老舗江戸前の極上の一品です。

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付け合わせは、秋田名物いぶりがっこ。この間秋田旅行に行った為分かりました。この事から旅行の話になり、いくつかの御勧めの場所を教えて頂きました。是非とも行きたいので、チェックします。話は弾み、あっという間に2時間近く経ってしまいました。前回も同様に滞在し、これが地元老舗の醍醐味なんだなと感じます。




そして帰宅しました。

自分は出来る限り昔ながらの地元の店で食べれる時に食べたいと思っています。
理由は最近閉店されるお店が多い為です。それに、高齢夫婦で営んでいるお店が多く見られます。



これも別記事で紹介しますが、親子で楽しめる貴重な大正から続く甘味処が今年閉店してしまいました。シャッターが閉じ、その後も惜しむ声とお礼の張り紙が複数貼られています。他、来客時に出前で使用していた天丼の店も閉店しました。




そして、ここ日の出寿司も来年2月に閉店してしまいます。たまにカウンターで板長と地元の事を話しながら食べるのがとても楽しいので残念に思います。残り2か月ちょっと。長く営業した店を畳むまでの短い貴重な時間、行けるだけ行きたいと思います。
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区内の図書館へ

以前、海苔の資料本を参考に、うちの情報がありそうな物をピックアップしておきました。

今回参考にしたものは大田区内の様々な情報をまとめた月刊おとなりさん。
2018年は元海苔漁師の家についてのインタビュー記事が月毎のようにあります。
かなり前の刊に、うちの情報に繋がる記事があるのではないかと期待がありました。

参考図書には田園調布の大田図書館所蔵とあります。しかし、同じ区内でも距離があるため先ずは近場から当たってみようと普段使用している南図書館に連絡してみました。
「近場だと大森西図書館にあります。」とのことで早速行動します。


初めての大森西図書館へ。
2017年12月分~閲覧でき、一通り読みましたが知っている神社関係の方の家が主でした。
しかし、見たかったそれ以前のものは廃棄されたとのことでした。



そんなわけで結局田園調布の方に向かうことにします。
そして、早速この日曜に自転車(ロードバイク)で行ってきました。
往復約15キロです。以前は何十キロと走ってましたが、ここのところ運動不足の上自転車での遠出をしていなかったもので、中々に疲れました。

して、大田図書館の月間おとなりさんの在庫を確認した所…2017年1月~と、ほんの一部のもののみ所蔵されていて、他は勝海舟の特集があるものを除き処分したとの事。

結果、収穫なしです。





帰路につきますが、多摩川土手を走っていきました。懐かしき母校が見えます。
高校時代は陸上部にて必死に競歩でこの土手を延々と歩いたものです。

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中学の剣道から、ど素人でこちらの陸上部に入部。ここは全国トップの強豪校であり同期は皆運動神経は勿論、中学時代全国で活躍した選手もいます。運動神経が悪い自分、高校から始まる競歩という競技が無ければ正直居場所は無かったと思います。他の人が軽く走るレベルでも自分は全力だったりと基礎的な所から差がありすぎて中々にきつかったです。幸い競歩がはまり、技術面も多くの指導者から認められました。しかし精神面が弱すぎて最終的には関東入賞で終えました。全国が見えていただけに多くの人の期待を裏切り今でも思い出す度に情けなく思います。

放課後、練習で使用していた多摩川土手。久々に通ったら拡張されていたりと、よりジョギングやサイクリングがしやすくなっていました。
そして少しショックだったのが最寄り鵜の木駅前のお肉屋さん(名前は忘れました)。部活を終えた後によく仲間とコロッケやメンチを食べていましたがそこが閉店してなくなっていました。丁度10年経ちますが、当時とは様子が変わっていたことが多々ありました。

校門の前にインターハイ・オリンピックで活躍したケンブリッジや投擲の選手達の写真が目に入ります。自分が高3の時、年末の合宿で中3で参加しに来ていました。まさか日本を代表する選手になるとは…




そんな訳で懐かしい気分に浸りながら1日を終えました。
今年も残り2週間ちょっととなりましたが、先ずは生の声を聞けるだけ聞く事に急ぎたいと思います。差し当たって海苔時代を知る、とあるお寺の住職さんが写真をもってたりと大変詳しいという情報を老舗のすし屋さんに伺ったので手紙を書き始める事から始めたいと思います。こちらのすし屋さんについても追々紹介します。
ちなみにこちらのお寺本堂前にある水がめを見渡すと奉納(お寺・神社に物品を寄付する事)者の欄に「滑川」の姓の方が記載されていた為、こちらの方についても確認したいと思っています。

因みに、大晦日は浦守稲荷神社にて初詣の準備を青年会にて行うのでそちらも余裕があれば最後に書きたいと思います。

先祖:二代目助次郎①

以前紹介した初代丹右ヱ門の長男助次郎さんについて紹介していきます。

 

 

生まれは明治6年。小柄ながら働き者で海苔養殖時代、当家で最盛期を築き上げた方です。「滑川家は大森で一番の海苔屋だった」と地域・親族の方に良く聞いて育ちました。ならば沢山記録が残っているだろうと、調べ始めた時に主に参考にしている大森漁業史を片っ端から読んでいきました。

 

 

結果は、打って変わって一切名前が記載されていません。父丹右ヱ門と息子菊蔵の名は確認出来ましたが、助次郎の名がありません。どういう事だろうか。期待していた分、疑問が湧いてきました。「第一人者としてやっていたと話は聞いていたが、主な記録が残る漁業史に名が無い為、代表はされていなかったのか?」と思いました。

 

しばらくした後に、コミュニティの方から「東京公文書館の情報検索で、大森 滑川で調べたら、いくつかの滑川さんがヒットしました。」との話を伺いました。

 

早速調べてみると…

 

 

 

大正10年3月1日

区画漁業権存続期間更新免許(荏原郡羽田町地先海面、区画漁業第1種漁業海苔〓建養殖業、海苔、荏原郡大森町代表者滑川助次郎)

 

大正15年5月13日

滑川助次郎外23名代表者滑川助次郎、海苔、大森町地先東北方沖合区画漁業期間更新免許漁業原簿登録

 

昭和6年5月23日

區画漁業権存続期間更新免許(大森町森ケ崎東北沖合、海苔、代表者滑川助次郎)

區画漁業権存続期間更新免許(大森町森ケ崎東南沖合、海苔、代表者滑川助次郎)

區画漁業権存続期間更新免許(大森町森ケ崎東方沖合、海苔、代表者滑川助次郎)

 

昭和6年9月15日

區画漁業権存続期間更新免許(大森町地先沖合、海苔、代表者滑川助次郎)

 

 (一部画像)

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と、この様に漁業免許に関する資料で代表として記載されている資料を複数発見できました!広い範囲で代表をされていた確実な記録であり、これは感激しました!やはり同志の情報網は大変ありがたいです。

これを知った自分は後日、二子玉川の東京公文書館まで足を運び、上記の資料を片っ端から印刷(1枚10円)し『家の大事な記録』として仏壇にとっておきました。因みに自宅に現存する助次郎の名の海苔に関するものは海苔船のエンジンを購入した時の証書のみです。

 ※丹右ヱ門の記事で紹介した証書も、この時に印刷したものです。

 

 

先祖調査するにおいて、まず大事な昔のものをしまっておく仏間に自分の知らないものがまだまだあるのではないかと思い整理・清掃しました。結果、和紙の婚姻控え帳・法要帳・江戸時代からの紙の位牌・賞状・日牌、月牌證(先祖供養の料金書)等が見つかりました。

 

 

ほぼ、お寺のもので牌證・寄付金感謝状が多く見られました。助次郎さんは信仰心がとても強い方だと分かります。確認出来るものは…

 

千葉:成田山新勝寺

神奈川:大山阿夫利神社大雄山最乗寺

和歌山:高野山櫻池院

長野:信州善光寺

三重:伊勢神宮

大森:厳正寺(檀家寺)

 

様々なお寺に貢献された様です。聞くには、昔は漁業町であった風習で豊漁・安全祈願として団体で特定のお寺にお参りに行くというものが多く存在したという事でした。

 

因みに、そのお寺や神社に貢献した・記念式典に参加された時等で石碑が作られる時に名が載ると以前のブログでお話しましたが、証書が多く総代(代表者)もされていたという成田山新勝寺の講、大森新栄講というものが現在でもあります。昔は船で向かったらしいですが、現在では大型バスで向かいます。自分は石碑の存在を調べる上で「これはいい機会だ。」と参加してきました。参加者を見渡すと中々の人数で7、80代の方が主です。(自分[28歳]と一番年が近くて40代の方)

1人で色々な事をするのに慣れている為、苦でも何でもありませんでした。

バスが到着したら昼食をとり、時間内に広い敷地の至る所に存在する石碑を見て周る為早々と向かいます。

 

 

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写真を撮り忘れましたが、本堂の裏で数百という石板があったり、点々とまとまっていたりとそれらを全てを確認しました。期待でワクワクして見回しました。結果…

 

 

 

 

 

 

収穫なし!

 

 

 

 

これは本当にがっかりでした。

 

 

 

 

祖父の名で釈迦堂修復時の寄付の礼状もあった為その周りも見ましたがありません。この為だけに時間とお金をかけて個人で向かわなくて本当に良かったです。

 

因みに、今年は開基1080年祭と語呂が良い時でした。

 

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ふと思い、自宅の資料を確認すると、

 

 

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なんと1000年祭!ちょうど80年前です。

まさか自分の4代下の子孫が同様に年祭に向かうとは思わなかったでしょう!自分からすると高祖父。助次郎さんからすると玄孫です。何とも感慨深いですね。「しっかり子孫は受け継がれていますよ」と。

 

 

 

他にいくつか残されている資料でこのようなものがありました。

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赤十字社に100円(当時:公務員初任給75円)の寄付をされています。社長は、かの最後の将軍徳川慶喜の息子、家達(覚えにくいけどいえさと)です。大政奉還をしなければ16代将軍になったであろう方です。

 

 

 

 

 

 

話は変わり、大森の海苔は昭和になり最盛期を迎え、休みなしで1年中大変でしたが、その分稼ぎもかなりのものでした。地方から年期奉公(年期契約してその家に住み込み、家業の手伝いをするもの)する人も多くいて、中には妾(愛人)を囲う人、よく宴会をされたりと羽振りの良い時代でした。

 

助次郎さんは宴会好きで、自宅の襖を全て外して法事でも何でも芸者を呼んで宴会にしてしまうような豪快な方だったと聞きます。

そして稼いだお金は全て土地購入に当てました。何でも「土地だけは購入しておかなければいけない。土地さえあればいくらでも海苔商売を出来る」との先を見据えた想いがありました。その為、当時は多くの土地を所有されていたのです。

 

しかし悲しいかな、海苔は終焉し、時代は流れ様々な事があり、現在は家の敷地のみ何とか残っています。更に税金やら何やらで大変な現状です。先祖代々の土地を守っていくのは非常に大変な事なのだと感じております。

 

長くなるため、今回はここまで。②に続きます。

 

  

 

 

先祖調査:最古の生年月日

調べていくうちに、皇族や華族神職、仏門を抜きに一般庶民での辿れる限界の生年月日・代数はどうなのかという疑問がわいてきました。

私の属しているコミニティでは明治19年式戸籍に祖母として記載されている方で寛政時代(1789~1801)の生まれの方がいらっしゃいました。

戸籍編成が明治19(1886)年。その時に90歳の方で1796(寛政7)生まれ。
その前の元号だと当時97歳の天明9(1789)年生まれの方です。


因みに最近、地元の聞きこみ調査で先祖が明治26年に101歳で亡くなったお宅がありました。戸籍が現存していれば寛政時代のいつということが分かります。更に!続柄の欄を見ればおおよそ安永時代の生まれであろう先代の名も分かります。
これは凄いですね。



参考に明治から遡っていくと…
慶應、元治、文久、万延、安政嘉永、弘化、天保、文政、文化、享和、寛政、天明、安永です。




代わって代数のお話。

千葉鴨川の仁右衛門島の仁右衛門さん。源平合戦平氏に追われていた源頼朝を匿い、後に平氏を倒し鎌倉幕府を開いた頼朝から匿ったお礼として平野の苗字と島を賜りました。その島こそが仁右衛門島です。新日本百景にも選ばれている名称でもあるのでいずれ観光予定です。
こちらは現当主で何と38代目!跡継ぎ問題がある為次期当主はどうなるのか心配です。因みに家はなんと宝永元年(1704年)建設だとか。
古文書に関しては江戸時代の洪水で流れてしまったので残念です。

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趣味で色々な所に旅行に行くのが好きなのですが、最近だと岐阜の白川郷から移築した合掌村の旧大戸家が天保4(1833)年~建築の重要有形民俗文化財にも指定されている見事な家でした。囲炉裏でボランティアのおじさんと大分長い事話しまして、代数は忘れてしまいましたが確か30代は続いていた様な…。直系の現当主はご結婚されていないという事で途絶えてしまう可能性があります。


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秋田の角館、武家屋敷では最古石黒家が一般公開もされていて現12代当主が今でも生活をされています。

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ここで一気に気が遠くなりますが、


神職でも続いている代数はどうなのか確認したところ…


島根、出雲大社宮司の千家家は85代!


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熊本、阿蘇神社宮司阿蘇氏は91代!

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神職は違いますね。






そして地元大森の旧東海道にある甘味処「餅甚」。現10代目当主です。
ここは江戸から続くなんと享保元年(1715年)!


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旧東海道には350年続く海苔問屋松尾店等、代々続く老舗が並びますが、残念な事に戦火で焼失してしまいました。餅甚の女将さんに伺った処、明治の現在の土地所有に関する証書を先先代が埋めていた為焼失を免れ戻ってくることが出来たと聞きました。女将さんは私の祖父母から面識がある方です。
江戸から続く大森の貴重なお店なのでいつまでも続いてほしいものですね。
京浜急行平和島駅から徒歩10分程度でのアクセスです。

大森海苔:伝統文化

体調不良・仕事の忙しさもあり、しばらくぶりの更新です。

 

今回は家業であった海苔漁業についてお話します。

 

 

歴史を遡ると、古くは奈良時代より食されている記録が残っている様で、

朝廷の献上品にもされていました。

※朝廷:天皇を中心に政治を行う機関

※幕府:将軍(武家)が中心になり、朝廷の代わりに政治を行う機関

 

記録から見て分かる様に、海苔は身分の高い人が食べる高級品です。故に一般庶民は口することが出来ません。では、いつから海苔養殖が始まったのか。

 

それは江戸、徳川時代です。

徳川家康に献上する品として大森・品川の沿岸にてアサクサノリを養殖した事が始まりで、江戸時代の人たちが試行錯誤で知恵を生かし、『ヒビ』と呼ばれる竹等の枝木を海底に突き刺し、海苔の種を付け海苔を成長させるという技術を発見しました。現在は網ヒビと呼ばれる網を使って海苔を成長させる技術に変わっています。因みに養殖が確立されたのは1700年初期の享保時代、8代将軍吉宗の時代です。

 

更に、現在全国でこの海苔養殖の技術が用いられていますが、実はその技術の大元・発祥の地がこの大森なのです。

 

今では見る影もありませんが、当時いかに漁業が盛んであった村かが分かります。

 

その養殖されていたアサクサノリですが、名前の由来は

浅草で採れた事が始まりなのか、大森で採った海苔を浅草で売った事が始まりなのか諸説あり定かではありません。

 

こちらの海苔は実は

 

繁殖しにくい、病気に弱い、傷みやすい

 

 

と扱いが非常に難しかしいものですが(現在、野生種は絶滅危惧種)

 

味・香りがどれも一級品で素晴らしいとか!

 

因みに私は口にした記憶はありません・・・・。

 

 

 

ではそんな養殖が難しいアサクサノリですが、現在も全国で養殖されているかというとされていません。

 

 

今では、スサビノリという種類が主になっています。なんといっても

 

成長速度・病気の強さ・繁殖力の強さが非常に優れているのです。

 

 

その為アサクサノリはほぼ養殖としても姿を消してしまいました。

 

 

 

大森は江戸時代より幅広く漁業をされていましたが、

 

海苔養殖最盛期は大正から昭和にかけてでした。

 

 

収穫期が10月~2月で、家族総出で深夜に起床し作業が始まり

 

極寒の中、海で海苔を収穫するという何とも過酷な漁です。

 

 

小学5年、11歳で海苔養殖終焉を迎えた父は

「毎日早くに起こされて非常に冷たい水を扱って、親父にこき使われたのでいい思い出がない。」と言っていました。

 

当時の海苔漁師の人は本当に逞しいと思います。

 

その海苔養殖業で栄えた大森も1962(昭和37)年に東京オリンピックに向けての整地の為の埋め立て・水質汚染等で漁業権を放棄し終焉を迎えました。

 

生業を失っては漁家は生活が出来ません。反対運動も勿論起こりました。

ですが、結果補償金をもって失業することとなります。

 

この補償金について、当時の東(あずま)都知事にかけあったのが

漁業組合連合会の会長であった曽祖父でした。

 

 

そして人々は海苔漁が出来ない為、それに関わる仕事場は次第に壊していき、その土地に工場を建て起業した家・アパートを建てて管理する家と次の生活の道を歩み始めていきます。

 

その結果、今の工業地帯となった大田区大森が出来上がってきたのです。

 

 

 

 

 

 

あとがき…

 

文章が苦手なのと、blogは慣れていない為時々不自然な箇所がありますが、随時編集していますのでご容赦下さいませ。