大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

ぎっくり

3週間前になりますが、善光寺に行く前日にぎっくり腰をしてしまいました。

一昨年の出勤中に身動きとれなくなったぎっくり腰と違い、今回は夜に電流が走るような痛みが流れるも、「これはやってしまったか」といった程度に、それなりには動けていました。

しかし、夜中目が覚めたら腰から下が硬直して痛みのコルセットを巻いているような激痛でまともに動けません。上半身の力だけでなんとか時間をかけて動き、トイレに向かいました。

医療の知識は日々更新されています。
今までは安静を推奨していましたが、今では「動いて治す」事が良いとされています。

しかしながら、寝返りすらまともに出来ない激痛だったのでほぼ寝ておりました。



貴重な一週間、休養していたので非常に勿体なかったです。

そして、当日に控えた善光寺への旅行は当然のごとくキャンセルしました。次はいつ行けることやら。


ちなみに2週前は地元、貴船神社の祭礼でした。始めての参加で、三基の町会御輿が出ており無理しない程度に担いできました。


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他の神社の御輿を担ぎに行く外交は気軽で楽しめます。

そして6月の第一週は氏神、浦守稲荷の祭礼になります。2日間頑張ります。

大山阿夫利神社

本日は先祖に所縁のある神社のひとつ、

伊勢原大山阿夫利神社に行ってきました。



去年の成田山新勝寺の事でも触れましたが、

昔は無病息災、家内安全、豊農、豊漁等の祈願の為に

団体で参拝しに行く「講」というのものがありました。



ここ大山阿夫利神社では、

高祖父  大山敬慎講
祖父 父 大森川端講

という団体で参拝しに行っていました。

現在はどちらの団体も無くなっております。






という訳で、


今回の目的も、名が刻んである石碑の発見です。






結果は…
















収穫なし!




ただ、地元大森の講ならふもとと、頂上にありました。しかし、先祖の名前は記載されておらず残念です。

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こちらがふもとの方の石碑です。

大森海盛講と言うそうです。



ここ大山は中々急な道が多く、下から登るのは素人には中々きついものがありました。

下から登っていくと女坂、男坂の2てに道が別れます。今回は男坂から登ることにしました。

さっそく目の前に急な階段が

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登ったあと数歩歩いてて振り替えると

階段が見えないほど急なことが分かります。

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しばらく登っていくと公衆トイレがあり、その先に本殿への階段が見えます。その前にある茶屋でソフトクリームを食べて熱した体を冷やしてました。

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早朝まであいにくの雨でしたが、伊勢原駅に着いたときには晴れておりました。
ただ、雨あとの山の湿気に汗だくだくで大変なことになってました。


そして本殿へ。

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左側本殿の中に名水が涌き出ており、水筒にいれ山道に備えます。
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ここから、頂上の本殿まで約90分かかるとの看板を見て、行くか迷いましたがせっかくなので少しでも石碑を期待して登ることにしました。(結局無かったですが)


しばらくこんな山道を登っていくと
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次第にもやがかかってきます。


かなり段差のある岩道、ぬかるんで滑りそうになる泥道をバックを抱えてワイシャツ、普通の靴で登っていく姿は登山熟練者から見たら正気を疑う光景だったかもしれません。

もともと石碑が目当てなので、それを追求する大した情熱ということにしておきましょう。


そして90分ほど登ってくと鳥居が…
いよいよゴールが見えてきます。

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鳥居を潜り、段差を登っていったら正面に
「大森」と彫ってあるものが見えます!

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結局名前は記載されてませんでしたが、最後の最後、頂上でのこの石碑に名が刻んであったら最高の展開だったと思います。



着いたは良いものの周りは雲だらけで真っ白。
快晴のときはさぞ見晴らしがよいでしょう。

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少し横になったあとに帰路に向かいます。

因みに頂上本殿の前の狛犬には「江戸」と掘られて、そのメンバーの名が刻まれていました。
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行きは主に踏ん張りの筋肉を使いましたが、
帰りは滑り落ちないようにブレーキの筋肉を使い、膝に中々負担がかかりました。

どちらもかなりきついです。


そして1時間ほどで下の本殿に戻ってきました。この時で14時30です。朝起きてからなにも食べてなかったので新しく出来たカフェで外の景色を見ながらローストビーフ丼を食べました。

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デザートには升ティラミスです。
クリームチーズが濃厚で中々美味しかったです。合わせて2000円でした。

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もう歩いて下山は辛いので途中の大山寺までケーブルカー350円で下ります。この頃から小雨が降り始めました。

大山寺駅までついたら少しあるくと本殿が見えます。
なんとも立派です。因みに途中鹿が2頭いました。f:id:nameto:20190501224647j:plain


ここから帰りの道中で、同じく下山途中の高齢男性と合流。色々と話しながら、ふもと~帰りのバス、伊勢原駅まで同行しました。歴史研究家の方で中々不思議な巡り合わせでした。




来週は同じく所縁のある長野県善光寺に行く予定です。家に残っている証書で一番多いのはこの善光寺です。少ない期待を込めて向かいます。

地元祭礼

いよいよ祭礼(おまつり)シーズンが近づいて来ました。
青年会では当日に向けての準備が始まっています。

私は高校卒業後、父の命で入会し今年で丁度10年になりました。そして、本日で29歳。20代でも最後の年となります。

大幅に変化した家庭環境、職場環境と大変濃い10年でした。



初めの頃は軽い気持ちでありましたが、今となっては地元の活動がいかに大切かを理解出来ました。
内部事情を知らなければ小さい頃からあるお祭り、盆踊りなどの地元の催し事や伝統行事は当たり前に続くものかと錯覚していました。

基を辿れば大先輩方の先を見据えた想いや多大な努力、地元の方の支え、地域活性化の為の案の試行錯誤の苦労の上で成り立っているものだと気付きます。



しかしながら、現在少子化やプライベートを重視する価値観(損得勘定)、交流の減少により人が減り消滅してしまった会や世代交代の危機に陥っている会は多いです。

偉そうに言っていますが、なにかしらきっかけがあれば興味を持つ処、正直私は家が代々神社に関わっていなければ入っていなかったと思います。
ですが、入会した以上40年続いている青年会と地元の行事をいつまでも継続させていく、次世代に繋いでいくことが大きな課題となるので先を見据えて努力をしていかなくてはならないと感じております。


駐車場や年数の経った家を壊しアパート、建て売りが増えて外から引っ越して来られる方が増えて子供の数も多くなっておりますので、地元に住んでいる以上少しでも興味を持ってくれる人が増えると良いなと思います。






話は変わり元号についてです。
改元は初めてなので発表の時は非常に緊張しました。崩御でなく生前退位なので明るいムードの中の改元でした。
仏間には「昭和天皇崩御、新元号は平成」の号外と新聞が保管されていたので、同じく改元された今、自分も新聞を買っておきました。
号外は難しいので諦めていましたが、次の日の早朝に駅で配っていたので幸運な事に入手することが出来ました。一緒に挟みファイルにしまっときます。

因みに、号外を配っていた近場の階段の下にはぐしゃぐしゃになった号外が大量に…

テレビでも放送されていましたが新橋で号外を取り合い破れたり良くてしわくちゃになっていましたね。
並べて配布すれば良いのに本当に醜いと思いました。


思い返せば、学校の授業で明治維新以前は~時代で括られていたと思うので明治以前の元号を知らない(慶応であることも)方が結構多いと感じました。
ネタかもしれませんが、江戸天皇がいると思っている人もいるとか。


中には元号は面倒なので要らないとの意見がありますが、745年の大化から続いている伝統的なものなので世界最古の国である日本の魅力の一つであると思います。
ただ、改元は元旦を境に施行すれば更に分かりやすくなったとは思います。月始めにあえてするものでもなく、その影響で昭和元年・64年はどちらも1週間程しかないのでこの年代の誕生日の人は貴重ですね。




桜が早くも散っています。
先日奈良の吉野まで見に行きましたが、宿へのバスが昼の時間一本しかないので泣く泣く手前の世界遺産である金峯山寺で引き返しました。
来年は有名な青森の桜を見に行く予定です。
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ついに発見、明治19年式戸籍

 


私が調査を始めて早3年が経とうとしていますが、ずっと探していた大田区が廃棄した当家の明治の戸籍を発見する事が出来ました!

 

曽祖父菊蔵の妹が海苔問屋に嫁いでおり、聞き込み調査をしていく事で初めは知らないとの話でしたが、改めて単語を出して確認した所、こちらの孫娘の方が平成初めにルーツ調べをされて、それぞれの戸籍を無いというまで辿っていき、それを保管してあるとの話を伺いました。

 

平成初期であれば、これは確実にうちの明治の戸籍を出されているなと確信が持てました。お店の為、後日確認して連絡してくれるとの事で楽しみに待つことにしました。

 

 

 

しかしながら、1月以上経つも連絡が無かった為訪問しに行きました。

そしたら「忙しくて連絡を先延ばしにしちゃった。」との事で、まとめていた資料を準備して頂いておりそちらを楽しみに見させて頂きました。

 

すると…

 

細長い縦書きの戸籍が!

 

 

これぞずっと探し求めていた大田区では取得不可能明治19年式戸籍です!

 

 

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遂にずっと謎であった元次郎さんの証明となる欄を見る事が出来ました。

前戸主の欄を見て分かる様に前の名は丹右ヱ門で、隠居した後に当家初代となる粂次郎さんが丹右ヱ門襲名した日も記載されていました。

 

しかしながら、元次郎さんの欄に明治3年に他界した妻の名と誰の何番目の子なのか記載がありません。丹右ヱ門が名跡(代々継がれる名)であるので、元次郎さんが長男であると仮定すると、

戸主粂次郎さんからみた続柄なので「祖父丹右ヱ門長男」として記載されているはずでした。

 

何より妻と父の名が判明しなかったのは残念です。

しかしながら、前までの情報では元次郎さんの誕生元号は不詳との事でしたが、しっかりと文政元年と記載されています!

西暦だと1818年ですが、かの有名な測量士伊能忠敬が73歳で亡くなった年です。

 

そして誕生元号が分かった為、没日から引くと享年を知る事が出来ます。

 

 

83歳で他界されている事が分かりました。

 

直系の先祖では2代目助次郎さんと同じ年で一番長生きされています。

 

 

これを考えたら元次郎さんの父は

30歳までの出産時 寛政(1789年~1801年)生まれで、

30代での出産時  天明(1781年~1789年)となるのでかなり遡れた事になります。

 

 

 

 

しかしながら、こちらの明治19年式戸籍は明治25年に編成されているのでその前の元次郎(丹右ヱ門)さんが戸主の戸籍があったはずです。

 

こちらには江戸時代生まれの粂次郎さんの兄弟・妻も記載されていたと思われるので、一切知らない名がかなり見られたと思います。

上記の戸籍も江戸時代からの転籍前である番地になる為、別世界になります。

 

こちらの戸籍は年代的に昭和後期には廃棄されていると思うので探し出すのは絶望的です。

 

さらに古文書は戦火で焼失している為調査はここまでとなります。

 

 

しかし、大田区史の活字化された古文書に1つのみ大森村のものを見つけました。

 

武蔵野国荏原郡六郷領西大森村検地水帳・元禄十年十二月のものです。

 

 

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1600年後期の為、明治維新後の東京府とは違い現埼玉・千葉の土地等も武蔵野国の一部です。

 

その中で当家の丹右ヱ門の名が記載されていました。

※複数ありましたが画像は一部のものです。

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江戸時代は幕府により移動を禁じられており、丹右ヱ門の名も他では確認できない為、これは確実に先祖であります。

 

ここから、少なくとも1600年代からの名跡だと分かりました。

江戸時代の記録はこちらだけになりますが、ここまで遡れたので

 良しとします。

いよいよ出来る事が限られてきたので、抜けが無いか資料を確認していこうと思います。

 

 

 

 

東友会

あっという間にひと月経ってしまいました。

前回お話した東友会についてです。

 

海苔漁業が盛んであった時代、海苔養殖者の地元有力者の若手育成を目的として創立されたのが東友会です。

 

結成日は大正10年10月  会員数48名によるもの。

 

 

勿論、結成時は明治生まれの方々が主です。現在はその子孫(子・孫)の方々が跡を継いでいます。

現会員数は18名。60~80代の方々が主で、この中で本格的に漁師としての経験がある方は概ね80代の方です。

 

この中で、昔の貴重なお話を聞けることは非常に為になります。

なにせ今後も存在する大森の最後の海苔漁師の方で、

今では全く姿を変えた大森のかつての姿(消えた文化)を知る最後の人達です。

 

そう考えると、出来るだけ話を伺って次世代に残していく必要があります。あと数年、せめて10年早く行動していれば更に詳しいベテランの方々が生存されていた事を思うとこれは時間との課題になっていくと思います。

 

 

そんな中で、父が出席されていた東友会。次世代となる私が引き継いで参加してきました。場所は平和島の天仲という明治30(1897)年創業の天ぷら屋さんです。

 

今ではこの辺りは埋め立てられていますが、当時は海岸が目の前であったそうです。

 

コース料理で刺身・天ぷら・酢の物が出てきます。

どれも絶品であり、数人の芸者さんを呼んでお酒を注いで貰ったり、舞を見たり中々できない体験を出来ました。

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私自身、グラス一杯で顔がじんじんして全身赤くなる程に酒に弱いため3杯程度飲みましたが、これでものみすぎたと思うくらいでした。

最後に紹介の機会を頂き15分ほど皆さんの前でお話しさせて貰いましたが立ち続けていたら酒の影響もあり貧血になってしまいました。

目の前が白くなってきても、頭の中では言いたい言葉が次々と出てきます。そこから座ってのお話でしたが、話終えた後に喜んで頂けたので何よりでした。



今年で創立97年。100周年まであと僅かです。

因みに当家の三代目当主、四代目当主が3、6代目の会長を歴任しております。

 

地元の会でここまで続いているのは大変貴重かつ他にはありません。

しかしながら7、80の方を筆頭に60代以上の方が主な中、その子孫の方々は引き継いでおらず、会員は減少傾向であと何年続けられるかは分かりません。

この貴重な地元の歴史のある会、自分に何が出来るか、考えていこうと思っています。

 

 

因みに更新頻度が激減した件についてですが、連日の調査中立て続けに否定的な言動を取られた事によるモチベーションの低下が原因です。


ルーツを探ることに関して誰しもが興味を持ったり協力してくれる訳ではありません。


頭では分かっていましたが、極端にそのような言動を取られてしまっては大きなモヤモヤしたものが中々とれませんでした。


しかしながら朗報もあります。

この中で、遂に探し求めていた大田区が廃棄した当家の明治の戸籍を発見する事が出ました。曾祖父妹の嫁ぎ先のお宅で昔出されたものを保管されており、感激しました。

海苔舟

久々の投稿になりました。
今回は海苔舟についてお話します。

海苔漁業は「べかぶね」という小舟に乗り、手作業で行います。海苔の収穫期は11月~4月程。早朝の寒い時に一斉に船が沖に向かって進んでいきます。
暖房器具が当たり前の様にある現代、昔は極寒の中の作業が現代以上にいかに過酷だったかが想像できます。
毎日朝起きて7時前には雨戸を開けたりする時に「海苔漁家だった頃はこの寒い中、海に行って冷たい海に手を入れて作業なんて自分にはできるかな・・。」と思ったり当たり前の様に食べている海苔が過酷な作業での賜物と考えると、知らなかった時よりありがたみを感じて食べれるようになったり、今は失われたものの先祖代々伝統の海苔漁業を必死にやってきたのだと誇りに思ったりしています。



漁の際、離れた場所ではエンジンつきの大きな海苔船(親船)に小舟を何隻も乗せて沖まで向い、そこで作業をします。
因みにべかぶねより少し大きな機材等を乗せるちゅうべかというものもあります。




当家では聞き込みや資料を調べ、知る限り3隻の舟を造っています。



名は蓬莱丸(ほうらいまる)。



蓬莱とは古代中国で不老不死の仙人が住む山を指すそうで、竹取物語かぐや姫が求婚者たちへの無理難題の一つで「蓬莱の珠の枝」というものを求めました。



船の写真ですが、
現存しているのは僅か数枚。それも、一番最後のものです。
唯一、昭和の初めに造ったと思われる蓬莱丸の大きな写真が一枚だけありました。

それがこちらです。


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右から2番目が高祖父の助次郎さん。
写真中央辺りの子供が大正15年生まれの私の祖父、昇です。大体5歳くらいとして、撮影年数は推定昭和3~5年と思われます。そして場所は羽田沖で撮影されています。


船が完成し、初めて海に浮かべることを船おろし(進水式)といい、親戚・近所の方・漁師仲間が集ります。始めに御神酒(おみき:祝いの酒)を船に供えて神主が祝詞(のりと:神に拳上する言葉)を上げる。そして港から船をだし、船にのっている人が陸にいる人達に向かって餅や菓子を投げて大いに祝います。これには子供たちも大喜びされました。

こちらの船が知る限り一番古い海苔船です。
郷土資料で当家取材による聞き書きがあり、そちらを参考にすると、大正末期にゴセキ型(幅一丈5尺)の大船を造り焼玉(エンジン)を付けたと書かれていました。恐らくこちらの前の船かと思われます。


写真は進水式で羽田沖に出たもので、聞き込みによると大阪のお得意さんが丁度こちらに来ていた時に、当家の進水式があるので急いで乗られたなんて話がありました。昔の写真のエピソードは聞かなければ分からないので貴重な話です。


少し脱線して…
写真はものによって面白いエピソードがあります。細かいことは忘れましたが、幕末に武士達がフランスに訪問する際にエジプトに寄りスフィンクスの前で写真を撮りました。

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この写真ですが、実は面白いことにスフィンクスのあご下に一人よじ登ってた人がいましたが、撮る瞬間にずり落ちてしまい写真には写らなかったというエピソードです。

ただ見ただけでは分からない、本当に一枚の写真には色んな物語がつまっているんだなと思います。





話は戻り、2隻目は写真は現存しておりませんが「大森の船大工」の本を参考に見つけました。地元の船大工によりつくられた造船記録によるもので、親族も合わせて当家の2隻の海苔船の記録も残っていました。


滑川舟エ門方:昭和25年5月7日【蓬莱丸】5尺7寸と記載されていますが、

崩し字や略字で記載してあった為か、丹が舟と間違えて記載されていました。


そして、最後の船。
滑川菊蔵:昭和34年9月14日【船名不明】(7尺)造船

曽祖父名義で船名の記載はありませんでしたが、これは祖父が造船した第一蓬莱丸のことであると思います。

そしてその限られた写真、進水式の写真です。


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まさか、このあと数年で海苔漁業が終焉を迎えるとは思いたくは無かったでしょう。祖父は海苔漁業に対して積極的で仕事が非常に早かったと聞きます。

終焉した後はしばらく釣り船をされていたそうですが、結果的には船は売ってしまったとの話です。


そして海苔道具に関して。当家は大々的に海苔漁業を営んでいた為大量の海苔道具がありました。小さい時に郷土資料館や学校に寄付したと聞いた気がした為、探し続けていましたが先日叔父(当時幼少期)に話を聞いたところ海苔終焉後毎日のように燃やされ、また風呂の燃料にしていたとの事実を聞き、なんてもったいない事を…とがっかりしました。

一大産業が終えてしまい場所だけとる無用の長物となってしまったのでしょう。今では、何故かかろうじて船の錆びたイカリだけが屋根の下に転がっています。




さて、以上になりますが地元海苔漁家の有力者、若手育成の為に結成された東友会という団体があります。
こちらは歴史のある会で、最後の海苔漁家の集まりである貴重な団体です。父の跡を継ぎ、会の一員として本日新年会に出席してきました。会員としては初めてですが、神社や青年会の活動を通し皆知っている方ですが改めて挨拶させて頂きました。それは次の記事にてお話していきます。

浦守稲荷青年会:除夜祭

私が所属する青年会を紹介する前に活動の記事になってしまいました。

我が家の氏神は浦守稲荷神社。
こちらを中心に地元の活動をしていくのが浦守稲荷青年会です。自分は高校を卒業したと同時に父の命で入会しました。

そして大先輩方にお世話になり早9年が経ちます。



本日、大晦日には除夜祭といい初詣の来客者用の甘酒・味噌汁接待や案内、整列等を行っていきます。

現在甘酒を65度越えないようにかき回し中です。


まだまだ明け方まで頑張ります!

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