六郷神社祭礼
昨日は夜勤明けで六郷神社の祭礼に行って来ました。
残り30分程度の時間でしたが、
中々入るスキが無く、結局担げず。
最後の宮入も見所があり、録画をしていたつもりでしたが録画ボタンが押せておらず
結局無駄に手を伸ばしていただけとういう虚しい事になりました。
雨が次第に降り始めましたが、激しさは無いのがなによりでした。
祭りには酒がつきものですが、
私は体質的に酒が弱く全く飲めません。この日は合流した時にサワーを一杯飲んだだけでしたが、結局深夜まで気持ち悪さが長引きました。疲れていたのもありますが、なんだか年々弱くなっている様に感じます。
おまけに合流した時点でとある所からそれなりに出血するという始末。今日は休みでしたが、昨日の帰宅後から今日の昼過ぎまで疲労で全身が動かないくらいでした。
夜勤明けで行くべきではないですが、年に1度の限られたものですので、出来るだけ参加していきたいと思ってますが、体の事を考えると止めた方が良いのか悩みどころです。
何もせずに1日を過ごすのは勿体ないと思いいつも何かしらやってしまいますが、何もしない日も身体にとって大事な事なのだと改めて感じました。
屋号
今回は屋号についてです。
呼び方は一つの項目に限らず
その土地に移り住んだ初代の名前、分家初代の名前、
職業、場所、等由来が様々な屋号が存在します。
地元には、
下駄屋・桶屋・鍛冶屋・篭屋などの職業の屋号。
惣助、六右衛門(ろくえむどん)、勇次郎(ゆうじさん)、太郎吉(たぁさん)等先祖の名前の屋号。
等があります。
当家は先祖の名前である丹右ヱ門(たいむどん)ですね。昔の円台、バケツ、木材や道具等には「丹」や「滑丹」と記載されて当家のものだと見て分かるようになっています。
そんなわけで以下親族、分家の屋号を紹介していきます。
昭和初期に分家した曾祖父姉、弟の家は当家から離れた土地に正面に向かい合う形で建ちました。姉の方の家は移築し現在はありませんが、当時は「前の家」「裏の家」と呼ばれていました。
前の家から当家の事は「大本家」、「表の家」(表とは本家の事)と呼ばれています。
続いて曾祖父妹さんの嫁ぎ先の家。
惣五郎さんが江戸時代に分家した家である「惣五郎爺屋」は、訛りで呼び方が
そうごろうじいや→そっごじいや→そっこうじんや
と呼んできます。
始めは「そこの新屋だから、そっこうじんや。」と聞いていましたが、調査を始めてから全く別の事実であることがわかりました。
二人目の妹さんの嫁ぎ先は大鳥居の海苔屋。
通称「大鳥居の家」です。
ここからは当家は「免田の家」と呼ばれています。というのも、前の浦地区は昔田んぼの税金が免除された為に、ここから「免田」と呼ばれたそうです。
前の浦は昔、舞の浦とも呼ばれ現在も舞の浦公園なるものもあります。
由来は、海が近かった為に鷺(さぎ)が舞っていたところから来たようです。
続いて末の妹さんは現港区である麻布(旧麻布区)に嫁ぎましたが、戦争の被害を酷く受け、こちらに移り住みました。通称「麻布の叔母さん」と呼ばれています。
調査を始めたときに、娘さんへ聞き込みをするため麻布の方まで行くことになるかと思っていましたが、この時に地元にいらっしゃった事が分かりました。
父の兄弟も、呼び方から麻布に住んでいると思っていたようです。
そして、明治期に分家した高祖父兄弟の家です。
当家の位置から向こうの川岸に住んでいた為、「向川岸(むこうがし)の家」と呼びました。
末の弟は森ヶ崎に分家したので「森ヶ崎の家」。
最後に三男の方ですが、分家というよりは当家が新たな土地に移った為、転籍前の家を引き継いだお宅です。本家は移動し、元の本家を新屋(しんや:分家の事)とした為、「置き新屋(じんや)」と呼びました。
こちらの方は入夫婚姻(今はない制度。女戸主の家に入り新たに戸主となる。その為、名字は妻の方になる。婿養子婚姻と違い妻の両親とは法律上親子にはならない)で横山姓となっています。
こちらの一族については全く情報がなく、入夫婚姻の事実を知ったのも今年の年始めに見つけた明治の戸籍から判明したことです。
というのも、昭和後半の控え帳を見ても横山さんの名が無くお付き合いは途切れており当時住まれていたお宅も昭和後期には無くなって公園となっております。その為、断絶してしまったのではないかと思い調査は困難でした。
元氏神の三輪厳島神社(弁天神社)所蔵の明治の手作り地図を参考に、横山家周辺の当時から続いているお宅に小さな可能性をかけて手紙を送りましたが、結局返事はありません。
手掛かりを掴めず、どうしたものかと頭を抱えましたが、諦めきれずに何か方法はないか考えました。
そうだ、菩提寺(家のお墓がある寺)を見よう。
ここから調査は大きく発展していきます。
浦守稲荷神社祭礼
先日、1日・2日は前回でお話した地元氏神、浦守稲荷神社の祭礼でした。
土曜日は夕方より、大・中の神輿が。
日曜日は朝より山車(だし)、大・中・小の神輿が出ます。
土曜日は前の浦商店街等を周ります。
昔は団子屋・八百屋・服屋等多くの商店があり賑わっていましたが、今は魚屋・肉屋・中華屋・練り物屋・パン屋と数少なくなりました。
スーパーやコンビニは大変便利ですが、その中で今までの商売を変わらず続けていくのは非常に大変な事だと思います。
話は戻り、神輿巡行コースに去年手紙を送りお話を聞かせて頂いた親族か不明の滑川家の方がいらっしゃったので挨拶をしました。
こちらのお宅は2代続いて養子であり、「滑川家」ではありますが、滑川の血は引いておりません。
2代前の養父の方は乙吉氏。もしかしたら当家の江戸時代分家した親族の可能性がありますが、大田区は昭和3年に司法大臣の命により戸籍が改正(明治19年、31年式の戸籍から一律大正4年式へ)され、どんなに古くても現状こちらの年代の除籍謄本しか取得できなくなっています。
その為、この乙吉さんは「前戸主」の欄でしか名前が確認出来ません。80年廃棄がなければ、乙吉氏の両親の名が判明し、当家と関係があったかどうかが分かったので残念です。
こちらの方は手紙を送った後、直ぐに読んで連絡を下さり色々な事を教えて頂きました。この様に、一切面識が無くとも訳をお伝えし協力して頂けるのは大変うれしい事です。調査で繋がりが出来る嬉しい瞬間でもあります。
話は祭礼に戻り、
夕方からの神輿巡行は照明が点くので日中とはまた違った良い見た目になります。※照明が点いた大神輿は撮り忘れました。
神輿が神社を出て巡行が始まる事を「宮出し」
巡行を終え神社に戻る事を「宮入」と言います。
この宮入りが一番盛り上がり、また喧嘩が起きるほど一番熱くなる瞬間でもあります。
これは担いでも見ていても楽しめます。
日曜日は1日かけて3丁目、5丁目、2丁目と大森南を周ります。
中でも東京労災病院がある大森5丁目は現在となってはバス停・公園等でしか見れませんが、かつては「森ケ崎」と言われていました。
明治期に温泉を掘りだし、「森ケ崎鉱泉」という温泉地で旅館が多く建てられ目の前に海岸もあった為避暑地として賑わいました。
しかし、戦前まで続きましたが戦後からは衰退し、旅館は次々消えて行き今では見る影もありません。当時の鉱泉旅館は現在、住宅地・病院の寮等に姿を変えています。
鉱泉街には養魚場もあり、その広い敷地は現在日本で一番大きいと言われる水再生センターになっています。以前は森ケ崎汚水処理場でしたが、私が中学の時に新たに名称を変更する為アンケートをとっていた事を覚えています。そして今の水再生センターに名が変わりました。
道を真っすぐ進むと
懐かしい母校大森第一中学校・池上自動車教習所があります。
そして長い商店街、通りを進み前の浦へと戻ってきます。
最後の休憩地点では以前「げんた」と言われる、人が繋がり円になって踊るものがありましたが、出来る方がおらず6年ほど前辺りから行わなくなりました。
宮入後の写真です。
今年も無事に終えました。
私は早朝から、他友好団体のもてなしの準備や神輿の馬(神輿を置く台)を軽トラックで運び、次の休憩地点まで急ぎ設置する係を担当し、タイミングが良ければ担ぎに入っていました。
初めは辛かったですが、今では楽しくやりがいを感じています。
来週の日曜は夜勤明けで六郷の祭礼へ初めて担ぎに行く予定です。
別件で、昭和20年代より付き合いが無くなった、情報が全く無い高祖父弟の子孫の家を特定しコンタクトを取った結果、協力・お付き合いが出来るようになり、調査が進展した嬉しいことがありました。
ぎっくり
3週間前になりますが、善光寺に行く前日にぎっくり腰をしてしまいました。
一昨年の出勤中に身動きとれなくなったぎっくり腰と違い、今回は夜に電流が走るような痛みが流れるも、「これはやってしまったか」といった程度に、それなりには動けていました。
しかし、夜中目が覚めたら腰から下が硬直して痛みのコルセットを巻いているような激痛でまともに動けません。上半身の力だけでなんとか時間をかけて動き、トイレに向かいました。
医療の知識は日々更新されています。
今までは安静を推奨していましたが、今では「動いて治す」事が良いとされています。
しかしながら、寝返りすらまともに出来ない激痛だったのでほぼ寝ておりました。
貴重な一週間、休養していたので非常に勿体なかったです。
そして、当日に控えた善光寺への旅行は当然のごとくキャンセルしました。次はいつ行けることやら。
ちなみに2週前は地元、貴船神社の祭礼でした。始めての参加で、三基の町会御輿が出ており無理しない程度に担いできました。
他の神社の御輿を担ぎに行く外交は気軽で楽しめます。
そして6月の第一週は氏神、浦守稲荷の祭礼になります。2日間頑張ります。
大山阿夫利神社
本日は先祖に所縁のある神社のひとつ、
去年の成田山新勝寺の事でも触れましたが、
昔は無病息災、家内安全、豊農、豊漁等の祈願の為に
団体で参拝しに行く「講」というのものがありました。
ここ大山阿夫利神社では、
高祖父 大山敬慎講
祖父 父 大森川端講
という団体で参拝しに行っていました。
現在はどちらの団体も無くなっております。
という訳で、
今回の目的も、名が刻んである石碑の発見です。
結果は…
収穫なし!
ただ、地元大森の講ならふもとと、頂上にありました。しかし、先祖の名前は記載されておらず残念です。
こちらがふもとの方の石碑です。
大森海盛講と言うそうです。
ここ大山は中々急な道が多く、下から登るのは素人には中々きついものがありました。
下から登っていくと女坂、男坂の2てに道が別れます。今回は男坂から登ることにしました。
さっそく目の前に急な階段が
登ったあと数歩歩いてて振り替えると
階段が見えないほど急なことが分かります。
しばらく登っていくと公衆トイレがあり、その先に本殿への階段が見えます。その前にある茶屋でソフトクリームを食べて熱した体を冷やしてました。
早朝まであいにくの雨でしたが、伊勢原駅に着いたときには晴れておりました。
ただ、雨あとの山の湿気に汗だくだくで大変なことになってました。
そして本殿へ。
左側本殿の中に名水が涌き出ており、水筒にいれ山道に備えます。
ここから、頂上の本殿まで約90分かかるとの看板を見て、行くか迷いましたがせっかくなので少しでも石碑を期待して登ることにしました。(結局無かったですが)
しばらくこんな山道を登っていくと
次第にもやがかかってきます。
かなり段差のある岩道、ぬかるんで滑りそうになる泥道をバックを抱えてワイシャツ、普通の靴で登っていく姿は登山熟練者から見たら正気を疑う光景だったかもしれません。
もともと石碑が目当てなので、それを追求する大した情熱ということにしておきましょう。
そして90分ほど登ってくと鳥居が…
いよいよゴールが見えてきます。
鳥居を潜り、段差を登っていったら正面に
「大森」と彫ってあるものが見えます!
結局名前は記載されてませんでしたが、最後の最後、頂上でのこの石碑に名が刻んであったら最高の展開だったと思います。
着いたは良いものの周りは雲だらけで真っ白。
快晴のときはさぞ見晴らしがよいでしょう。
少し横になったあとに帰路に向かいます。
因みに頂上本殿の前の狛犬には「江戸」と掘られて、そのメンバーの名が刻まれていました。
行きは主に踏ん張りの筋肉を使いましたが、
帰りは滑り落ちないようにブレーキの筋肉を使い、膝に中々負担がかかりました。
どちらもかなりきついです。
そして1時間ほどで下の本殿に戻ってきました。この時で14時30です。朝起きてからなにも食べてなかったので新しく出来たカフェで外の景色を見ながらローストビーフ丼を食べました。
デザートには升ティラミスです。
クリームチーズが濃厚で中々美味しかったです。合わせて2000円でした。
もう歩いて下山は辛いので途中の大山寺までケーブルカー350円で下ります。この頃から小雨が降り始めました。
大山寺駅までついたら少しあるくと本殿が見えます。
なんとも立派です。因みに途中鹿が2頭いました。
ここから帰りの道中で、同じく下山途中の高齢男性と合流。色々と話しながら、ふもと~帰りのバス、伊勢原駅まで同行しました。歴史研究家の方で中々不思議な巡り合わせでした。
来週は同じく所縁のある長野県善光寺に行く予定です。家に残っている証書で一番多いのはこの善光寺です。少ない期待を込めて向かいます。
地元祭礼
いよいよ祭礼(おまつり)シーズンが近づいて来ました。
青年会では当日に向けての準備が始まっています。
私は高校卒業後、父の命で入会し今年で丁度10年になりました。そして、本日で29歳。20代でも最後の年となります。
大幅に変化した家庭環境、職場環境と大変濃い10年でした。
初めの頃は軽い気持ちでありましたが、今となっては地元の活動がいかに大切かを理解出来ました。
内部事情を知らなければ小さい頃からあるお祭り、盆踊りなどの地元の催し事や伝統行事は当たり前に続くものかと錯覚していました。
基を辿れば大先輩方の先を見据えた想いや多大な努力、地元の方の支え、地域活性化の為の案の試行錯誤の苦労の上で成り立っているものだと気付きます。
しかしながら、現在少子化やプライベートを重視する価値観(損得勘定)、交流の減少により人が減り消滅してしまった会や世代交代の危機に陥っている会は多いです。
偉そうに言っていますが、なにかしらきっかけがあれば興味を持つ処、正直私は家が代々神社に関わっていなければ入っていなかったと思います。
ですが、入会した以上40年続いている青年会と地元の行事をいつまでも継続させていく、次世代に繋いでいくことが大きな課題となるので先を見据えて努力をしていかなくてはならないと感じております。
駐車場や年数の経った家を壊しアパート、建て売りが増えて外から引っ越して来られる方が増えて子供の数も多くなっておりますので、地元に住んでいる以上少しでも興味を持ってくれる人が増えると良いなと思います。
話は変わり元号についてです。
改元は初めてなので発表の時は非常に緊張しました。崩御でなく生前退位なので明るいムードの中の改元でした。
仏間には「昭和天皇崩御、新元号は平成」の号外と新聞が保管されていたので、同じく改元された今、自分も新聞を買っておきました。
号外は難しいので諦めていましたが、次の日の早朝に駅で配っていたので幸運な事に入手することが出来ました。一緒に挟みファイルにしまっときます。
因みに、号外を配っていた近場の階段の下にはぐしゃぐしゃになった号外が大量に…
テレビでも放送されていましたが新橋で号外を取り合い破れたり良くてしわくちゃになっていましたね。
並べて配布すれば良いのに本当に醜いと思いました。
思い返せば、学校の授業で明治維新以前は~時代で括られていたと思うので明治以前の元号を知らない(慶応であることも)方が結構多いと感じました。
ネタかもしれませんが、江戸天皇がいると思っている人もいるとか。
中には元号は面倒なので要らないとの意見がありますが、745年の大化から続いている伝統的なものなので世界最古の国である日本の魅力の一つであると思います。
ただ、改元は元旦を境に施行すれば更に分かりやすくなったとは思います。月始めにあえてするものでもなく、その影響で昭和元年・64年はどちらも1週間程しかないのでこの年代の誕生日の人は貴重ですね。
桜が早くも散っています。
先日奈良の吉野まで見に行きましたが、宿へのバスが昼の時間一本しかないので泣く泣く手前の世界遺産である金峯山寺で引き返しました。
来年は有名な青森の桜を見に行く予定です。
ついに発見、明治19年式戸籍
私が調査を始めて早3年が経とうとしていますが、ずっと探していた大田区が廃棄した当家の明治の戸籍を発見する事が出来ました!
曽祖父菊蔵の妹が海苔問屋に嫁いでおり、聞き込み調査をしていく事で初めは知らないとの話でしたが、改めて単語を出して確認した所、こちらの孫娘の方が平成初めにルーツ調べをされて、それぞれの戸籍を無いというまで辿っていき、それを保管してあるとの話を伺いました。
平成初期であれば、これは確実にうちの明治の戸籍を出されているなと確信が持てました。お店の為、後日確認して連絡してくれるとの事で楽しみに待つことにしました。
しかしながら、1月以上経つも連絡が無かった為訪問しに行きました。
そしたら「忙しくて連絡を先延ばしにしちゃった。」との事で、まとめていた資料を準備して頂いておりそちらを楽しみに見させて頂きました。
すると…
細長い縦書きの戸籍が!
これぞずっと探し求めていた現大田区では取得不可能の明治19年式戸籍です!
遂にずっと謎であった元次郎さんの証明となる欄を見る事が出来ました。
前戸主の欄を見て分かる様に前の名は丹右ヱ門で、隠居した後に当家初代となる粂次郎さんが丹右ヱ門襲名した日も記載されていました。
しかしながら、元次郎さんの欄に明治3年に他界した妻の名と誰の何番目の子なのか記載がありません。丹右ヱ門が名跡(代々継がれる名)であるので、元次郎さんが長男であると仮定すると、
戸主粂次郎さんからみた続柄なので「祖父丹右ヱ門長男」として記載されているはずでした。
何より妻と父の名が判明しなかったのは残念です。
しかしながら、前までの情報では元次郎さんの誕生元号は不詳との事でしたが、しっかりと文政元年と記載されています!
西暦だと1818年ですが、かの有名な測量士伊能忠敬が73歳で亡くなった年です。
そして誕生元号が分かった為、没日から引くと享年を知る事が出来ます。
83歳で他界されている事が分かりました。
直系の先祖では2代目助次郎さんと同じ年で一番長生きされています。
これを考えたら元次郎さんの父は
30歳までの出産時 寛政(1789年~1801年)生まれで、
30代での出産時 天明(1781年~1789年)となるのでかなり遡れた事になります。
しかしながら、こちらの明治19年式戸籍は明治25年に編成されているのでその前の元次郎(丹右ヱ門)さんが戸主の戸籍があったはずです。
こちらには江戸時代生まれの粂次郎さんの兄弟・妻も記載されていたと思われるので、一切知らない名がかなり見られたと思います。
上記の戸籍も江戸時代からの転籍前である番地になる為、別世界になります。
こちらの戸籍は年代的に昭和後期には廃棄されていると思うので探し出すのは絶望的です。
さらに古文書は戦火で焼失している為調査はここまでとなります。
しかし、大田区史の活字化された古文書に1つのみ大森村のものを見つけました。
武蔵野国荏原郡六郷領西大森村検地水帳・元禄十年十二月のものです。
1600年後期の為、明治維新後の東京府とは違い現埼玉・千葉の土地等も武蔵野国の一部です。
その中で当家の丹右ヱ門の名が記載されていました。
※複数ありましたが画像は一部のものです。
江戸時代は幕府により移動を禁じられており、丹右ヱ門の名も他では確認できない為、これは確実に先祖であります。
ここから、少なくとも1600年代からの名跡だと分かりました。
江戸時代の記録はこちらだけになりますが、ここまで遡れたので
良しとします。
いよいよ出来る事が限られてきたので、抜けが無いか資料を確認していこうと思います。