大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

浦守稲荷神社祭礼

先日、1日・2日は前回でお話した地元氏神、浦守稲荷神社の祭礼でした。
土曜日は夕方より、大・中の神輿が。
日曜日は朝より山車(だし)、大・中・小の神輿が出ます。

土曜日は前の浦商店街等を周ります。
昔は団子屋・八百屋・服屋等多くの商店があり賑わっていましたが、今は魚屋・肉屋・中華屋・練り物屋・パン屋と数少なくなりました。
スーパーやコンビニは大変便利ですが、その中で今までの商売を変わらず続けていくのは非常に大変な事だと思います。


話は戻り、神輿巡行コースに去年手紙を送りお話を聞かせて頂いた親族か不明の滑川家の方がいらっしゃったので挨拶をしました。
こちらのお宅は2代続いて養子であり、「滑川家」ではありますが、滑川の血は引いておりません。
2代前の養父の方は乙吉氏。もしかしたら当家の江戸時代分家した親族の可能性がありますが、大田区は昭和3年に司法大臣の命により戸籍が改正(明治19年、31年式の戸籍から一律大正4年式へ)され、どんなに古くても現状こちらの年代の除籍謄本しか取得できなくなっています。
その為、この乙吉さんは「前戸主」の欄でしか名前が確認出来ません。80年廃棄がなければ、乙吉氏の両親の名が判明し、当家と関係があったかどうかが分かったので残念です。
こちらの方は手紙を送った後、直ぐに読んで連絡を下さり色々な事を教えて頂きました。この様に、一切面識が無くとも訳をお伝えし協力して頂けるのは大変うれしい事です。調査で繋がりが出来る嬉しい瞬間でもあります。




話は祭礼に戻り、
夕方からの神輿巡行は照明が点くので日中とはまた違った良い見た目になります。※照明が点いた大神輿は撮り忘れました。

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神輿が神社を出て巡行が始まる事を「宮出し」
巡行を終え神社に戻る事を「宮入」と言います。

この宮入りが一番盛り上がり、また喧嘩が起きるほど一番熱くなる瞬間でもあります。
これは担いでも見ていても楽しめます。




日曜日は1日かけて3丁目、5丁目、2丁目と大森南を周ります。
中でも東京労災病院がある大森5丁目は現在となってはバス停・公園等でしか見れませんが、かつては「森ケ崎」と言われていました。
明治期に温泉を掘りだし、「森ケ崎鉱泉」という温泉地で旅館が多く建てられ目の前に海岸もあった為避暑地として賑わいました。
しかし、戦前まで続きましたが戦後からは衰退し、旅館は次々消えて行き今では見る影もありません。当時の鉱泉旅館は現在、住宅地・病院の寮等に姿を変えています。
鉱泉街には養魚場もあり、その広い敷地は現在日本で一番大きいと言われる水再生センターになっています。以前は森ケ崎汚水処理場でしたが、私が中学の時に新たに名称を変更する為アンケートをとっていた事を覚えています。そして今の水再生センターに名が変わりました。


道を真っすぐ進むと
懐かしい母校大森第一中学校・池上自動車教習所があります。

そして長い商店街、通りを進み前の浦へと戻ってきます。


最後の休憩地点では以前「げんた」と言われる、人が繋がり円になって踊るものがありましたが、出来る方がおらず6年ほど前辺りから行わなくなりました。

宮入後の写真です。
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今年も無事に終えました。




私は早朝から、他友好団体のもてなしの準備や神輿の馬(神輿を置く台)を軽トラックで運び、次の休憩地点まで急ぎ設置する係を担当し、タイミングが良ければ担ぎに入っていました。
初めは辛かったですが、今では楽しくやりがいを感じています。



来週の日曜は夜勤明けで六郷の祭礼へ初めて担ぎに行く予定です。

別件で、昭和20年代より付き合いが無くなった、情報が全く無い高祖父弟の子孫の家を特定しコンタクトを取った結果、協力・お付き合いが出来るようになり、調査が進展した嬉しいことがありました。