大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

子供映画会

24日の土曜日に青年会主催での子供映画会を行いました。
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今年は仕事の都合でほぼ終わりの時に神社に到着です。

本来ですと、昼過ぎに子供のお菓子の振り分け・神楽殿へのスクリーン立て・ブルーシート敷等の現場作りを行います。

今年はリメンバーミーを上映しました。
去年はミリオン大脱走
毎年何を上映するかは数ヵ月前より役員会で決定していきます。

私が小さかった頃はここで『もちもちの木』を見た覚えがあります。
見ていた側が成長し、見せる側に変わる。世代交代ですね。

今年は子供だけで108人来てくれました。親御さんも会わせるとかなりの人数です。年齢は小学校低学年が多く、中学以上となるとさすがにいませんでした。


ちなみに、映画会の流れですが受け付け(性別、学年、人数)を行ってからクジを一枚貰い、お菓子とジュースを受け取ってからブルーシートへ座ります。
ぱきっと折ると発光する棒も貰えます。

ブルーシートの後ろにはパイプ椅子も用意してあるのでお好きなように座れます。

上映後は受付の時に渡したクジで、マックの券等が当たる抽選を行って終了です。


勿論全て無料であり、地元の方の支えで行えている行事です。多くの人に見て、喜んで貰えるとやりがいがあります。
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右衛門 左衛門

ルーツ調査において戸籍を見れば自分の両親、更にその両親、そのまた両親と遡っていけば大抵幕末生まれの先祖まで判明します。

江戸時代の人名でよく~右衛門、~左衛門といった「衛門」が付く名前の人は時代のイメージで浮かんできます。

今回はその「衛門」について着目していきます。


起源を辿れば800年代まで遡ります。朝廷に使える「衛門府」という官職(役所)があり、左右二つに分かれていたので右衛門府左衛門府となっていました。古代の官職はかなりの権威を持ちます。これに従事した方が右衛門・左衛門の名を名乗った事が始まりだそうです。
鎌倉、室町になると武家の方が名乗り、時代は流れて特に先祖が衛門府に従事していなくとも関係なく、農民でも名乗る方が増えていきました。

なので、先祖の名に右衛門・左衛門が付いていても誰もが遥か昔の先祖が官職であったとは言えません。

そんな訳で、私の直系の右衛門・左衛門を紹介していきます。ちなみに、ブログ名を丹右ヱ門にしているのは、墓石・戸籍に沿ってつけました。ヱも衛も同様ですが、これはワ行のえなので、「うぇ」と発音します。


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父の母の実家、田中七右衛門。
屋号で「しちよめさん」と聞いています。大分なまっていますね。

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母の母の父の父の父、小沢市朗左エ門。
戸主は並木辰藏なので婿養子婚姻ですね。
母の名が記載ありませんが、これは改正原の戸籍に記載がなかった為不明というパターンです。妻が江戸時代生まれで明治始めに亡くなっている場合、未記載ということがよくあります。

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上の並木辰藏の養父の養父並木重左エ門。
並木家は二代続けて養子。辰藏の養父は「養嗣子」です。養子と違う点は、家督相続(跡継ぎ)の為にとった養子という所です。

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母の母の母の母の父、喜右ヱ門。
更にその父治五右ヱ門。
文政生まれの隠居した父が記載されています。更に、続柄欄にその父である治五右衛門が記載されています。生まれは1700年前後ですね。

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そして最後に
私の父の父の父の父の父の父、丹右エ門こと元次郎。
上の図と見比べて下さい。

本来、記載されている続柄の欄が空白です。家系図を作る上ではこれはかなり痛いです。過去帳を見る限り、先代は安政年間に早死にしています。その為でしょうか?
恐らく丹右エ門であると想像できますが、史書に記載されている江戸時代の家系図を見ると継がれている○代目○右衛門という名でも、途中その名を継いでいない当主もいるので、一概に確実とは言えません。

最近、母方のルーツを辿り茨城と埼玉に除籍謄本の請求をして郵送にて手元に届き、これで直系である全ての戸籍を揃えることが出来ました。
家庭状況にもよりますが、やはり明治の戸籍が残っていると1800年前半は楽々遡れますね。一番古くて130年前の戸籍です。

ちなみに、除籍謄本の郵送ですが先に何通現存しているか確認して頂いてから準備、必要物品を揃えて郵送という流れでしたが、一ヶ所の役所ではメールでの問い合わせに「個人情報保護の観点から検索は出来ない。」と返事が来ました。遠いから問い合わせているのであって、何通該当するか分からない以上、定額小為替(750円)も買えません。

直系であることが証明できるのに、120年以上前に亡くなっている人に対して「個人情報」って何なんですかね? 

違反した人間の刑を厳罰にすることはせずに、全ての事において、何でもかんでも「個人情報!個人情報!」なんて融通のきかない時代になったものです。
  

仕事の監査でも「これは個人情報!こっちも個人情報!全て隠して!鍵閉めて!」なんて何かに取り憑かれいるかのごとく、小さな小さな事にも難癖つけてきますが、そんなことしてたら多忙な職場は回らないし、やることが増えすぎてスムーズにいかず、本来の目的って何だろうなと毎回考えてしまいます。


個人情報といえば、初の戸籍である明治5年式(壬申)戸籍も直系のみ見えるようにすればよいのに全ての人に対して絶対閲覧不可!永久封印!なんて極端な通達になりましたね。

更に寺の過去帳では、江戸時代に生まれて江戸時代に亡くなった方でも「個人情報」で一般の閲覧は厳しく規制されています。


この先更に狂ったようにこの「個人情報保護」がエスカレートすると先祖調査するにおいてかなりやりづらく、また今見れる資料が見れなくなる可能性もあります。

なので、除籍謄本は廃棄される前に辿れるだけ全て出して保管!
先祖調査はお早めに!
ということをお勧め致します。

蒲田八幡祭礼

大分遅くなりましたが、月始めに蒲田八幡神社の祭礼に行ってきました。朝7時30分出発で向かいます。
こちらは以前お話しした江戸前担ぎです。

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昼過ぎになると京急蒲田駅のアーケード内を進んでいきます。ここでは、拡声器で「○○会様!」と呼ばれ、その団体が花棒という神輿前方の担ぎ棒に集まって担ぎます。1分も無いくらいでしょうか、

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次々に「○○青年会様!」と呼ばれていくので頻繁に入って抜けてを繰り返し、巡行中一番熱くなるところです。

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そして蒲田駅の目の前を一周し神社へと戻って行きます。他の町会神輿も複数出ており、物凄い見物客の量でした。


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駅の近くで和太鼓の演奏もやっていたので少し見ていきました。和太鼓の身体を突き抜けるような音は非常に魅力的です。いつか和太鼓をやってみたいと思いつつ、以前調べたときにレッスン代が高額であった為諦めた事がありました。人生の幅を増やしたいのでいずれ挑戦して行こうと思います。

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今週は萩中の祭礼です。仕事で参加できませんが、こちらも羽田同様ヨコタ担ぎです。


萩中といえば、二代目である高祖父の奥さんである大山いそ氏の故郷です。入籍後の明治の戸籍に番地記載はなく、「羽田村大字萩中」としか書いていないので、現在も家が続いているかは不明です。
かなり裕福な家ということを聞いていますが、自宅にある昭和初期の香典帳や控帳の大山姓の名を控えて大山宅へ訪問して発見したいと思います。特定できて、数世代遡れば御の字です。

羽田神社例大祭

7月の週末金土日の三日間は羽田神社の祭礼です。

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私は本日、日曜日の午後から参加してきました。

今年は祝奉 天皇陛下御即位記念として、55年ぶりに牛車が出ました!
その前は昭和39年の東京オリンピックの時で、現在全国に広がる海苔養殖の技術を確立した大森の海苔漁業が完全に終了した年でもあります。


牛車は鳳輦渡御(ほうれんとぎょ)といい、起源は御輿より古く古代中国の皇帝等が乗られていたものです。
因みに鳳輦(ほうれん)は鳳凰の飾りがてっぺんにある神輿で、渡御(とぎょ)とは列をつくって町を巡行することです。


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あいにく、午前中は行けなかったので生で見れることが出来ませんでした。下の写真は会の先輩が撮られたものです。


12時には鳳輦渡御宮入の為、私が到着した12時30には完全に牛はいなくなっていました。
話を聞くと、牛はなんと京都から一頭40万でレンタルしてきたとか。牛も長旅だったんですね。



午後3時より、パレードが始まります。
羽田神社の祭礼は14町会の連合であり、14基の神輿が集まります。して、集まる場所は橋を渡り羽田空港が見える所です。
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羽田神社例大祭は担ぎ手3000人、
見物客30000人とも言われています。

橋には、かつての漁師町を彷彿させる大漁旗に会の名前が記載されています。

因みに鳥居が見えるも、本殿は見えないと疑問が出てくると思いますが、これは戦争が大きく関わっています。


話は逸れますが、羽田が出来たのは江戸時代中期。埋め立てによって出来た土地であり、それゆえに水害を多く受けていました。開拓していくにあたって、それらから守るために穴守稲荷神社(文化元年)が建てられました。(現在の穴守稲荷は移転したもの)
穴守の由来は、堤防が決壊し水害にあった後に堤防の上に社を建てたら海の荒れがおさまった為、「堤防に開いた穴の害から人々を守る」という意味からつけられています。

明治になると温泉が湧き、旅館が建ち、潮干狩りなどを楽しめる場となり観光地となりました。

1931(昭和6)年8月25日には羽田空港が開港され、日本の玄関となりましたが戦後1か月後の1945(昭和20)年9月21日にGHQによって羽田一帯を没収され、軍用地にする為羽田の住民に48時間以内の強制撤去を命じます。(しかも、これは警察らが交渉して延長したものであり、初めは12時間以内の強制退去という鬼畜ぶりである。)

それも羽田江戸見町、羽田穴守町、羽田鈴木町に住む3000人にです。人々は泣く泣く生まれ育った土地を、発表されてから僅か二日で離れることになってしまいます。敗戦国の定めですがなんとも横暴ですね。

同時に、羽田空港にあった穴守稲荷神社は撤去されました。しかしながら、上の写真の赤い大鳥居はどう撤去しようにも作業中の事故・作業員の病死が続いたため、「祟り」を恐れて大鳥居だけはそのまま点在し続けていました。

戦後半世紀過ぎてもそのままでしたが、羽田空港の拡張の祭に、ど真ん中に点在する鳥居は空港というものを考えると非常にじゃまになってしまうので、住民の希望もあり撤去せず移転することとしました。
現在の土地に移動したのは平成11年2月。私が9歳の頃です。関係者が祈祷をしたりと、非常に慎重に行ったとの事でした。

そのような経緯があり、現在のポツンとした大鳥居の姿があるわけです。
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話は祭礼に戻りまして、
時間になったら順番に巡行が始まります。
ここ、羽田神社の担ぎ方は以前説明した船が大波で揺れる姿を表すヨコタ担ぎです。

「よこー、たてー、はいーれ、一二の三!」の号令で左右の担ぎ手が跳ねて神輿を大きく揺らします。

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まずは、神輿が上がって揺さぶる。そして
橋を渡り、そこで長めに揺さぶる。

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ここから産業道路へ向かって進みます。
ヨコタ担ぎはある程度の時間揺さぶったら、
「よい、よい、よいよい!」の号令でヨイトという神輿を水平に運ぶ進み方に変わります。

「ヨイト、ヨイト…」と移動していき、
ある程度進むと再び、

「よこー、たてー、はいーれ。一二の三!」で神輿を揺らす。このように練り歩きをしていきます。


途中、高架下をとおりますがここではかなり長く5分以上揺らし続けます。
ヨコタ担ぎは跳び跳ねる方も、軸を支える芯の方もかなりきついです。その為、ここでは頻繁に入れ替わります。
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本日は午前は雨でしたが、午後はからやんで暑い中の巡行でした。
給水所では、航空会社の方がお茶やレモン水を配られていました。


産業道路前までいくと休憩に入ります。

そして、休憩後に宮司による祈祷の後に、14町会の神輿がそれぞれの神社へ戻っていきます。


そして宮入です。
非常に長く十数分揺らしていまして、私も間間に入ってげっそりしてました。

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終えたあとは三本締めで終了。今日はよく動きました。
因みに、担がないつもりでいましたが、今の自分が何処まで通用するかというのと、やはり見ているだけではきついというのもあり、頻繁に入っていました。

おかげで肩に神輿だこができかかったので、よーくマッサージして悪化しないように処置したいと思います。

来週は行けるか分かりませんが、蒲田神社祭礼です。こちらは江戸前担ぎなので、是非いきたいですね。

一橋大学へ

二週間程前、大田区史に記載されている元禄時代武蔵国六郷領西大森村検地水帳の原本である古文書を見に、所蔵されている国立の一橋大学付属図書館へ行ってきました。



見事な建物が目に入ります。
この環境だと、嫌いな勉強でもやる気が起きる気分になります。

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予めメールにて見たい史料の予約をしていたので、受け付けもスムーズにいきました。


上記の検地水帳に合わせて元禄時代大森村絵図も用意して頂き、1600年代後期の史料を生で拝見させて頂きました。


保存状態が非常に良く、とても300年以上経ったものだとは思えません。
写真は丹右ヱ門が記載されている所を中心に撮っていきました。
丸々貼付すると問題があるため、一部のみ紹介します。


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中田弐畝廿歩 丹右衛門

とあります。江戸時代の土地の単位は、

町 ちょう  3000坪
反 たん   300坪
畝 せ    30坪
歩 ぶ    1坪(たたみ二畳)

となっております。

中田とは、田んぼの等級のことを指します。

田んぼも、畑も収穫量によって上、中、下とランク付けされます。つまり畑だと上畑、中畑、下畑となります。
つまり、この土地は中ランクの田んぼ60坪を丹右衛門が所有されているという事です。

因みに、廿は20の事です。古い戸籍や過去帳、古文書には20日の事を廿日と記載しております。これは百や千と同じような漢数字です。
異体字として卄という字も同じ意味で使用されます。


他にも丹右衛門名義の田、畑、屋敷があり元禄当時どれだけのものを持っていたのかが分かりました。
郷土資料の当家の聞き込み資料では、昭和初期まで蒲田や糀谷の所有する土地で米を作り売っていたと記載されていました。
半農半漁時代の姿がうかがえます。

にしても、この丹右衛門は何代目なんでしょうか。
最後の丹右衛門、粂次郎が当家の初代となりますが、年数から考えても10代は越えているのかと思われます。…なぜこの様な大事なことを伝承されていないのかが不思議です。
因みに、私が加入しているコミュニティで先祖名、兵右衛門を持つ方で、薬商売をされたのれんに(十二代 兵右衛門)の記載があり代数が分かったなんて羨ましいお話がありました。



大田区史にはこちらだけでなく、慶應義塾大学に明治2年の田畑帳を所蔵していると記載が。
大学の所蔵されているデータベースを見ると当、荏原郡大森村の資料がありました。

まだまだ調べる価値はありそうです。

水止めの舞

14日の日曜日は東京都の無形民俗文化財に指定されている厳正寺の水止舞を観に行きました。

 

水止舞は約680年の歴史を持ち、起源は鎌倉時代の元亨元(1321)年にまで遡ります。

当時、武蔵国(現:関東)が大干ばつ被害に遭った時に住職がワラで竜神を作り7日間祈祷し雨を降らせました。

しかし、その2年後に長雨が続き田畑が流出してしまった為、農民は以前の感謝を忘れて「あの時の雨ごいのせいだ」と住職を責めます。

その為住職は獅子の頭を3つ作り『水止(しし)』と名付けて農民に被せて太鼓を叩きながら舞わせ、ほら貝を吹いて龍神に雨を止ませる様に祈祷したところ雨は止み、農民は感謝して今後天変地異の際はお寺に「水止舞」を捧げるようになったといいます。

 

 

必用時には頼り、問題があれば責め立てる。何とも勝手な話ですね。

 

因みにこちらの舞は保存会もあり現在まで続いていますが、かつては厳正寺舞というものがありました。こちらは第二次世界大戦により、踊り手が戦死された為途絶えてしまいまったそうで何とも残念です。

 

 

 

開催は13:00~15:00までの時間です。去年も今年も夜勤明けで観る事が出来ましたが、どちらも仮眠している間にいつも開始時間を過ぎてしまい、いつも途中からの鑑賞です。


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始まりは、ワラで渦巻き状に編んだ雌雄の龍神2体の中に一人ずつ入り、ほら貝を吹きながら水をかけられ道をゴロゴロ転がされます。

 

そしてお寺に入り舞台に上がって舞が始まりますが、私はいつもこの舞からしか見たことがありません。当日は雨であった為にお寺の正面の魚屋から始まったそうですが、いつもは150m程離れた大森東中の正面から始まります。

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到着してからは、先にお墓参りを済ませて鑑賞しました。

観に来ている方は数人外国人がいたり、休日という事もあり結構な人数でした。伝統行事の為、地元テレビ局も来ています。

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舞台前側には太鼓を鳴らし足踏みをしている獅子3人、華籠という赤い被り物をしている左右の2人がさらら(楽器のギロの様なもので、さららは稲穂が擦れる音で五穀豊穣の意味)というものを擦らせ、舞台後側の方が吹く笛の音と共に水止めの舞いは行われます。


語り手はいつも調査でお世話になっている長老がされています。10代から携わっている為70年近く続けられています。いつまでも元気でいて頂きたいですね。

 

終わったあとは舞台前に関係者が集まり写真を撮ります。

そのあとに獅子の頭を希望者に被ってもらい写真撮影も出来ます。

これには「頭痛が治る」という言い伝えがあります。


小雨が続いていましたが、舞が終わる頃には丁度良く雨が止んでいました。

思わず信じたくなるようなタイミングです。

 

終わったあとは長老に挨拶し、寺を後にしました。

 

そして夕方には神社へ、先月の京都旅行の報告会である鎮座式に参加して来ました。この時に耳にしましたが、今月末にある羽田神社祭礼では見事な大神輿が出る年だ思ってましたが、こちらは出ずに50年振りに牛舎が出るという事でした。

大神輿を楽しみにしていたので残念ですが、貴重な牛舎を見て来たいと思っています。

この日、神輿は担がない予定です。理由は『ヨコタ担ぎ』という船が大波で揺れている姿を表わす独特の担ぎ方で、一定の時間左右に大きく揺らし、担ぎ手はジャンプし続けるという中々きつい担ぎ方だからです。数年前、初めての参加で足を壊し回復まで大分時間が掛かったもので…。

 

因みに浦守稲荷神社の担ぎ方は知らない人でも神輿と言えば想像がつく『江戸前神輿』です。

ワッショイ、ワッショイやエイサ、エイサの掛け声で練り歩くというもの。私はこちらが一番好きです。


信州善光寺

5月には腰を壊して行けなかった善光寺へ再チャレンジしました。
善光寺といえば、誰もが人生に一度は行くべき所と言われています。
今回も石碑調査に向かいました。


東京からかがやきで長野駅へ出発し、

約二時間で到着。

丁度昼に着くようにしたので、駅内で昼食にします。


明治亭というカツ屋が気になったので、ここに決めました。信州鹿と信州豚のソースカツ丼です。
鹿肉はさっぱりしていて美味でした。

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外に出ると駅がの綺麗な外装が目に入ります。

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駅から善光寺へは2㎞あり、バスで片道150円で行けますが道中楽しみたいため歩いて向かいます。 



道中寄り道をして、とある寺に凄いものがありました。なんと700年も前のお墓です。

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そしていよいよ信号を渡り、善光寺へ到着。

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敷地から仲見世通り、山門にかけて石畳が敷かれています。これは、1700年代に二名の方より寄進されたもので、長野市文化財になっています。

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歩いていくと仁王門が目に入ります。
こちらの建造は宝暦2(1752)年ですが、弘化・明治と火災で焼失し、大正7(1918)年に再建されたものです。

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更に歩いていくと見事な山門が。
こちらはなんと、寛延3(1750)年に建てられ大地震を耐え、火災を避けられて平成の大改修(2002~2007)まで当時のままでした。改修は老朽化によるもので、建築年数と同じ5年がかりで行っています。

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門の中には全国の善光寺と名のつく寺の数などが日本地図で説明されています。


そしていよいよ本堂へ。
こちらは度々火災にあうも、元禄の火災を最後に徳川幕府の命で7年かけて宝永4(1707)年に再建され今に至ります。明治28年に国宝指定されています。

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当家は代々善光寺でも先祖供養をして頂いており、その証書が数枚神棚に残されています。
せっかくなので父の三回忌の祈祷をお願いしました。

指定された時間に集合し、首から帯をかけて本堂へ向かいます。祈祷申込み者は一般参拝者よりも前に行けます。
今回はなんと自分一人のみの申し込みであり、お坊さんからも「本日は貸しきりでございます。」と壇の前に正座し背後から数十人の視線を感じながらの祈祷でした。


その後はお戒壇巡りという、極楽浄土へ行けるようにする為に、ご本尊の下を一周(45m)回る行事があります。こちらは、本堂の階段を下りると真っ暗闇です。右手で壁を伝いながら前の人とぶつからないようにゆっくりと歩いていきます。
因みに、途中に極楽の錠(壁についている輪)というものがあり、それに触れると極楽浄土が約束されるとか。
前の方の人が触れる音が聞こえましたが、私は分からずにそのまま通りすぎてしまいました。


そもそも私は死後の世界は信じていないから特にどうといった訳ではないですけどね。



本堂を後にして、西側にある大勧進(だいかんじん)という所に向かいました。
こちらの門はなんと寛政元(1789)年建造です。

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奥には武田信玄上杉謙信らの位牌が安置されています。善光寺は戦国武将でも馴染みのある場所なんですね。
因みに、門前の橋から下の池を見るとアカミミガメが数匹見えます。その中にスッポンが一匹だけいましたのでとりあえず撮影しました。

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最後に、大勧進の隣にある大本願という所に寄って事務の方と色々な話をして善光寺を後にしました。


敷地内の石碑や名が刻まれている灯籠など全て目を通しましたが、先祖の名が記載されているものはありませんでした。



そして歩いて長野駅方面へ戻り、ホテルに向かいます。いつも遠出の時は、源泉かけ流しの温泉付きの歴史ある旅館を選んでいますが今回は節約して、運びの温泉があるビジネスホテルにしました。

暗くなってから町へ夜遊びに行き、腹ごしらえをしてホテルに戻りテレビでお笑いを見ていました。
これはYouTubeが見れるテレビで、とりあえずおすすめに上がってたのを見て深夜を迎えました。

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ここから調査とは関係ありません。せっかく遠出したので観光に行きます。長野駅からバスで松代へ向かい、六文銭の真田家に関する家・武家屋敷を見て回りました。
因みに観光案内所にて、300円で夕方まで自転車を借りることが出来ますのでこちらを利用しました。(水曜日は定休日がかなり多かったです)


屋敷を一通り回り、松代象山地下壕という所へ行きました。
ここは第二次世界大戦末期に本土決戦の砦に極秘に作られたものです。労働者には多くの日本人・朝鮮人が働かされ、多くの方が亡くなっていきました。
終戦後、証拠隠滅の為に関係史料は全て焼却されて真実は闇に葬られました。その為、どのくらいの人数で誰が亡くなったのかすら分かりません。
大日本帝国時代は上の考えがとても恐ろしいです。仮に戦争に勝利していたら今でも軍事国家で、貴族制度も継続していたのではないでしょうか。

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内部は非常に広い直線になっています。公開しているのは黒い部分のみです。

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観光は無料。ヘルメットは必ずして行きます。
どんどん進むにつれて、当時の過酷な映像が頭に浮かびます。内部は私一人なので少しばかり恐怖感がありました。

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最深部は急にかなりカビ臭くなりました。
一定の距離にまとまってトンネルを支えている丸太に真っ白で大量のカビが生えていた為です。

胞子をなるべく吸い込まないように行き止まりまで確認し、来た道を引き返しました。

戦争当時の環境に行くといかに今が恵まれているのか改めて感じられます。


最後に真田家を祀ってあるお寺へ墓を見に行きました。ここは安永、天明、弘化等の江戸時代のお墓がゴロゴロあります。
当家の菩提寺は歴史は1200年代からですが、ほぼ昭和からのお墓で江戸時代のものはほぼありません。
戦災の被害の有無で大分変わってきますね。

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小腹が空いた為、焼きたてのパン屋さんでアンパンマンの顔をしたチョコパン、クリームパン、フレンチトーストを食べていきました。ふわっふわでクリーム・チョコがたっぷり入っており味も大変美味でした。あまりに美味しかったので、新幹線用にも買っていきました。店員のおばさまは大喜びです。

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そして帰路へ着きました。



当家ゆかりの寺社。
残すは和歌山の高野山、三重の伊勢神宮となりました。正直もう石碑は期待せずに観光目的でいずれ向かおうと思います。