区内の図書館へ
以前、海苔の資料本を参考に、うちの情報がありそうな物をピックアップしておきました。
今回参考にしたものは大田区内の様々な情報をまとめた月刊おとなりさん。
2018年は元海苔漁師の家についてのインタビュー記事が月毎のようにあります。
かなり前の刊に、うちの情報に繋がる記事があるのではないかと期待がありました。
参考図書には田園調布の大田図書館所蔵とあります。しかし、同じ区内でも距離があるため先ずは近場から当たってみようと普段使用している南図書館に連絡してみました。
「近場だと大森西図書館にあります。」とのことで早速行動します。
初めての大森西図書館へ。
2017年12月分~閲覧でき、一通り読みましたが知っている神社関係の方の家が主でした。
しかし、見たかったそれ以前のものは廃棄されたとのことでした。
そんなわけで結局田園調布の方に向かうことにします。
そして、早速この日曜に自転車(ロードバイク)で行ってきました。
往復約15キロです。以前は何十キロと走ってましたが、ここのところ運動不足の上自転車での遠出をしていなかったもので、中々に疲れました。
して、大田図書館の月間おとなりさんの在庫を確認した所…2017年1月~と、ほんの一部のもののみ所蔵されていて、他は勝海舟の特集があるものを除き処分したとの事。
結果、収穫なしです。
帰路につきますが、多摩川土手を走っていきました。懐かしき母校が見えます。
高校時代は陸上部にて必死に競歩でこの土手を延々と歩いたものです。
中学の剣道から、ど素人でこちらの陸上部に入部。ここは全国トップの強豪校であり同期は皆運動神経は勿論、中学時代全国で活躍した選手もいます。運動神経が悪い自分、高校から始まる競歩という競技が無ければ正直居場所は無かったと思います。他の人が軽く走るレベルでも自分は全力だったりと基礎的な所から差がありすぎて中々にきつかったです。幸い競歩がはまり、技術面も多くの指導者から認められました。しかし精神面が弱すぎて最終的には関東入賞で終えました。全国が見えていただけに多くの人の期待を裏切り今でも思い出す度に情けなく思います。
放課後、練習で使用していた多摩川土手。久々に通ったら拡張されていたりと、よりジョギングやサイクリングがしやすくなっていました。
そして少しショックだったのが最寄り鵜の木駅前のお肉屋さん(名前は忘れました)。部活を終えた後によく仲間とコロッケやメンチを食べていましたがそこが閉店してなくなっていました。丁度10年経ちますが、当時とは様子が変わっていたことが多々ありました。
校門の前にインターハイ・オリンピックで活躍したケンブリッジや投擲の選手達の写真が目に入ります。自分が高3の時、年末の合宿で中3で参加しに来ていました。まさか日本を代表する選手になるとは…
そんな訳で懐かしい気分に浸りながら1日を終えました。
今年も残り2週間ちょっととなりましたが、先ずは生の声を聞けるだけ聞く事に急ぎたいと思います。差し当たって海苔時代を知る、とあるお寺の住職さんが写真をもってたりと大変詳しいという情報を老舗のすし屋さんに伺ったので手紙を書き始める事から始めたいと思います。こちらのすし屋さんについても追々紹介します。
ちなみにこちらのお寺本堂前にある水がめを見渡すと奉納(お寺・神社に物品を寄付する事)者の欄に「滑川」の姓の方が記載されていた為、こちらの方についても確認したいと思っています。
因みに、大晦日は浦守稲荷神社にて初詣の準備を青年会にて行うのでそちらも余裕があれば最後に書きたいと思います。
先祖:二代目助次郎①
以前紹介した初代丹右ヱ門の長男、助次郎さんについて紹介していきます。
生まれは明治6年。小柄ながら働き者で海苔養殖時代、当家で最盛期を築き上げた方です。「滑川家は大森で一番の海苔屋だった」と地域・親族の方に良く聞いて育ちました。ならば沢山記録が残っているだろうと、調べ始めた時に主に参考にしている大森漁業史を片っ端から読んでいきました。
結果は、打って変わって一切名前が記載されていません。父丹右ヱ門と息子菊蔵の名は確認出来ましたが、助次郎の名がありません。どういう事だろうか。期待していた分、疑問が湧いてきました。「第一人者としてやっていたと話は聞いていたが、主な記録が残る漁業史に名が無い為、代表はされていなかったのか?」と思いました。
しばらくした後に、コミュニティの方から「東京公文書館の情報検索で、大森 滑川で調べたら、いくつかの滑川さんがヒットしました。」との話を伺いました。
早速調べてみると…
大正10年3月1日
区画漁業権存続期間更新免許(荏原郡羽田町地先海面、区画漁業第1種漁業海苔〓建養殖業、海苔、荏原郡大森町代表者滑川助次郎)
大正15年5月13日
滑川助次郎外23名代表者滑川助次郎、海苔、大森町地先東北方沖合区画漁業期間更新免許漁業原簿登録
昭和6年5月23日
區画漁業権存続期間更新免許(大森町森ケ崎東北沖合、海苔、代表者滑川助次郎)
區画漁業権存続期間更新免許(大森町森ケ崎東南沖合、海苔、代表者滑川助次郎)
區画漁業権存続期間更新免許(大森町森ケ崎東方沖合、海苔、代表者滑川助次郎)
昭和6年9月15日
區画漁業権存続期間更新免許(大森町地先沖合、海苔、代表者滑川助次郎)
(一部画像)
と、この様に漁業免許に関する資料で代表として記載されている資料を複数発見できました!広い範囲で代表をされていた確実な記録であり、これは感激しました!やはり同志の情報網は大変ありがたいです。
これを知った自分は後日、二子玉川の東京公文書館まで足を運び、上記の資料を片っ端から印刷(1枚10円)し『家の大事な記録』として仏壇にとっておきました。因みに自宅に現存する助次郎の名の海苔に関するものは海苔船のエンジンを購入した時の証書のみです。
※丹右ヱ門の記事で紹介した証書も、この時に印刷したものです。
先祖調査するにおいて、まず大事な昔のものをしまっておく仏間に自分の知らないものがまだまだあるのではないかと思い整理・清掃しました。結果、和紙の婚姻控え帳・法要帳・江戸時代からの紙の位牌・賞状・日牌、月牌證(先祖供養の料金書)等が見つかりました。
ほぼ、お寺のもので牌證・寄付金感謝状が多く見られました。助次郎さんは信仰心がとても強い方だと分かります。確認出来るものは…
千葉:成田山新勝寺
和歌山:高野山櫻池院
長野:信州善光寺
三重:伊勢神宮
大森:厳正寺(檀家寺)
様々なお寺に貢献された様です。聞くには、昔は漁業町であった風習で豊漁・安全祈願として団体で特定のお寺にお参りに行く講というものが多く存在したという事でした。
因みに、そのお寺や神社に貢献した・記念式典に参加された時等で石碑が作られる時に名が載ると以前のブログでお話しましたが、証書が多く総代(代表者)もされていたという成田山新勝寺の講、大森新栄講というものが現在でもあります。昔は船で向かったらしいですが、現在では大型バスで向かいます。自分は石碑の存在を調べる上で「これはいい機会だ。」と参加してきました。参加者を見渡すと中々の人数で7、80代の方が主です。(自分[28歳]と一番年が近くて40代の方)
1人で色々な事をするのに慣れている為、苦でも何でもありませんでした。
バスが到着したら昼食をとり、時間内に広い敷地の至る所に存在する石碑を見て周る為早々と向かいます。
写真を撮り忘れましたが、本堂の裏で数百という石板があったり、点々とまとまっていたりとそれらを全てを確認しました。期待でワクワクして見回しました。結果…
収穫なし!
これは本当にがっかりでした。
祖父の名で釈迦堂修復時の寄付の礼状もあった為その周りも見ましたがありません。この為だけに時間とお金をかけて個人で向かわなくて本当に良かったです。
因みに、今年は開基1080年祭と語呂が良い時でした。
ふと思い、自宅の資料を確認すると、
なんと1000年祭!ちょうど80年前です。
まさか自分の4代下の子孫が同様に年祭に向かうとは思わなかったでしょう!自分からすると高祖父。助次郎さんからすると玄孫です。何とも感慨深いですね。「しっかり子孫は受け継がれていますよ」と。
他にいくつか残されている資料でこのようなものがありました。
赤十字社に100円(当時:公務員初任給75円)の寄付をされています。社長は、かの最後の将軍徳川慶喜の息子、家達(覚えにくいけどいえさと)です。大政奉還をしなければ16代将軍になったであろう方です。
話は変わり、大森の海苔は昭和になり最盛期を迎え、休みなしで1年中大変でしたが、その分稼ぎもかなりのものでした。地方から年期奉公(年期契約してその家に住み込み、家業の手伝いをするもの)する人も多くいて、中には妾(愛人)を囲う人、よく宴会をされたりと羽振りの良い時代でした。
助次郎さんは宴会好きで、自宅の襖を全て外して法事でも何でも芸者を呼んで宴会にしてしまうような豪快な方だったと聞きます。
そして稼いだお金は全て土地購入に当てました。何でも「土地だけは購入しておかなければいけない。土地さえあればいくらでも海苔商売を出来る」との先を見据えた想いがありました。その為、当時は多くの土地を所有されていたのです。
しかし悲しいかな、海苔は終焉し、時代は流れ様々な事があり、現在は家の敷地のみ何とか残っています。更に税金やら何やらで大変な現状です。先祖代々の土地を守っていくのは非常に大変な事なのだと感じております。
長くなるため、今回はここまで。②に続きます。
先祖調査:最古の生年月日
調べていくうちに、皇族や華族、神職、仏門を抜きに一般庶民での辿れる限界の生年月日・代数はどうなのかという疑問がわいてきました。
私の属しているコミニティでは明治19年式戸籍に祖母として記載されている方で寛政時代(1789~1801)の生まれの方がいらっしゃいました。
戸籍編成が明治19(1886)年。その時に90歳の方で1796(寛政7)生まれ。
その前の元号だと当時97歳の天明9(1789)年生まれの方です。
因みに最近、地元の聞きこみ調査で先祖が明治26年に101歳で亡くなったお宅がありました。戸籍が現存していれば寛政時代のいつということが分かります。更に!続柄の欄を見ればおおよそ安永時代の生まれであろう先代の名も分かります。
これは凄いですね。
参考に明治から遡っていくと…
慶應、元治、文久、万延、安政、嘉永、弘化、天保、文政、文化、享和、寛政、天明、安永です。
代わって代数のお話。
千葉鴨川の仁右衛門島の仁右衛門さん。源平合戦で平氏に追われていた源頼朝を匿い、後に平氏を倒し鎌倉幕府を開いた頼朝から匿ったお礼として平野の苗字と島を賜りました。その島こそが仁右衛門島です。新日本百景にも選ばれている名称でもあるのでいずれ観光予定です。
こちらは現当主で何と38代目!跡継ぎ問題がある為次期当主はどうなるのか心配です。因みに家はなんと宝永元年(1704年)建設だとか。
古文書に関しては江戸時代の洪水で流れてしまったので残念です。
趣味で色々な所に旅行に行くのが好きなのですが、最近だと岐阜の白川郷から移築した合掌村の旧大戸家が天保4(1833)年~建築の重要有形民俗文化財にも指定されている見事な家でした。囲炉裏でボランティアのおじさんと大分長い事話しまして、代数は忘れてしまいましたが確か30代は続いていた様な…。直系の現当主はご結婚されていないという事で途絶えてしまう可能性があります。
秋田の角館、武家屋敷では最古石黒家が一般公開もされていて現12代当主が今でも生活をされています。
ここで一気に気が遠くなりますが、
神職でも続いている代数はどうなのか確認したところ…
神職は違いますね。
そして地元大森の旧東海道にある甘味処「餅甚」。現10代目当主です。
ここは江戸から続くなんと享保元年(1715年)!
旧東海道には350年続く海苔問屋松尾店等、代々続く老舗が並びますが、残念な事に戦火で焼失してしまいました。餅甚の女将さんに伺った処、明治の現在の土地所有に関する証書を先先代が埋めていた為焼失を免れ戻ってくることが出来たと聞きました。女将さんは私の祖父母から面識がある方です。
江戸から続く大森の貴重なお店なのでいつまでも続いてほしいものですね。
京浜急行の平和島駅から徒歩10分程度でのアクセスです。
大森海苔:伝統文化
体調不良・仕事の忙しさもあり、しばらくぶりの更新です。
今回は家業であった海苔漁業についてお話します。
歴史を遡ると、古くは奈良時代より食されている記録が残っている様で、
朝廷の献上品にもされていました。
※朝廷:天皇を中心に政治を行う機関
※幕府:将軍(武家)が中心になり、朝廷の代わりに政治を行う機関
記録から見て分かる様に、海苔は身分の高い人が食べる高級品です。故に一般庶民は口することが出来ません。では、いつから海苔養殖が始まったのか。
それは江戸、徳川時代です。
徳川家康に献上する品として大森・品川の沿岸にてアサクサノリを養殖した事が始まりで、江戸時代の人たちが試行錯誤で知恵を生かし、『ヒビ』と呼ばれる竹等の枝木を海底に突き刺し、海苔の種を付け海苔を成長させるという技術を発見しました。現在は網ヒビと呼ばれる網を使って海苔を成長させる技術に変わっています。因みに養殖が確立されたのは1700年初期の享保時代、8代将軍吉宗の時代です。
更に、現在全国でこの海苔養殖の技術が用いられていますが、実はその技術の大元・発祥の地がこの大森なのです。
今では見る影もありませんが、当時いかに漁業が盛んであった村かが分かります。
その養殖されていたアサクサノリですが、名前の由来は
浅草で採れた事が始まりなのか、大森で採った海苔を浅草で売った事が始まりなのか諸説あり定かではありません。
こちらの海苔は実は
繁殖しにくい、病気に弱い、傷みやすい
と扱いが非常に難しかしいものですが(現在、野生種は絶滅危惧種)
味・香りがどれも一級品で素晴らしいとか!
因みに私は口にした記憶はありません・・・・。
ではそんな養殖が難しいアサクサノリですが、現在も全国で養殖されているかというとされていません。
今では、スサビノリという種類が主になっています。なんといっても
成長速度・病気の強さ・繁殖力の強さが非常に優れているのです。
その為アサクサノリはほぼ養殖としても姿を消してしまいました。
大森は江戸時代より幅広く漁業をされていましたが、
海苔養殖最盛期は大正から昭和にかけてでした。
収穫期が10月~2月で、家族総出で深夜に起床し作業が始まり
極寒の中、海で海苔を収穫するという何とも過酷な漁です。
小学5年、11歳で海苔養殖終焉を迎えた父は
「毎日早くに起こされて非常に冷たい水を扱って、親父にこき使われたのでいい思い出がない。」と言っていました。
当時の海苔漁師の人は本当に逞しいと思います。
その海苔養殖業で栄えた大森も1962(昭和37)年に東京オリンピックに向けての整地の為の埋め立て・水質汚染等で漁業権を放棄し終焉を迎えました。
生業を失っては漁家は生活が出来ません。反対運動も勿論起こりました。
ですが、結果補償金をもって失業することとなります。
この補償金について、当時の東(あずま)都知事にかけあったのが
漁業組合連合会の会長であった曽祖父でした。
そして人々は海苔漁が出来ない為、それに関わる仕事場は次第に壊していき、その土地に工場を建て起業した家・アパートを建てて管理する家と次の生活の道を歩み始めていきます。
その結果、今の工業地帯となった大田区大森が出来上がってきたのです。
あとがき…
文章が苦手なのと、blogは慣れていない為時々不自然な箇所がありますが、随時編集していますのでご容赦下さいませ。
私のブログをご覧の方へ
書いてきた記事でも触れましたが、これを見て下さった方!
是非ともご自身の直系の除籍謄本を直ぐにでも取得されることを
強くお勧めします!
何度も書きましたが、保存期間が過ぎると片っ端から
除籍謄本は廃棄処分されます!
戸籍は自分のルーツを知る大事な手がかりです!
先ずは自分の両親、両親2人の両親・・・
と、縦の繋がりであれば請求権はあります!
私を例にすると
父滑川家、祖母田中家、曾祖母小松原家、
高祖母大山家、高祖父母並木家
母上田家、祖父母養母金子家、祖父母実母伊藤家
祖父母実母の母中村家と取得を試みました。
結果、取得できなかったのは以下4件です。
川崎の小松原家・墨田区の上田家は震災・戦災で焼失。
高祖母大山家・高祖父母並木家は80年廃棄。
父方の方は廃棄の壁が大きかったです。
しかし、母方のルーツは千葉の船橋にあり、ここはしっかり明治初期のものまで保存されている為沢山取得できました。
しかし、除籍謄本750円は高すぎ・・・・。
この様に、戦災・震災・洪水・80年廃棄と壁があり、
何処まで取得できるかは全く分かりません。
先ずは自分の戸籍、両親の戸籍とどんどんさかのぼってみて下さい。
申請に必要な住所・本籍・筆頭者・生年月日を控えていれば大丈夫です。
申請理由は自分は『記載事項確認の為』としています。
中には更に「何処に提出されますか?」等と聞いてくる職員もいますが、
そこはハッキリ「自宅に保管したい。」と言っています。
しかし「家系図でも作られているんですか?」と理解して頂き、
大変丁寧に協力して頂ける職員の方もいらっしゃいました。
何はともあれ行動してみて下さい。取得していくうちに更ルーツを知りたいという気持ちが湧き出てくるはずです。
結局何が言いたいのかといいますと、巡り巡って今の自分がいるので
先祖の大事さと、今とはかけ離れた当時の時代に思いを馳せる事は
面白いものだと実感して頂きたかったからでした。
自分のブログを読んで少しでも関心を持って頂けたら幸いです。
先祖:初代丹右ヱ門
ブログのタイトルでもある、丹右ヱ門についてお話します。
嘉永2(1849)年誕生で、当家の初代となる方です。
幼名粂次郎。明治25年以前は産業道路を挟み、大森中中央病院の裏の土地に住んでいました。
実は、当家はいつから・誰から海苔養殖に携わるようになったのかは不明です。
確実に記録に残っているのは丹右ヱ門で、現在一番古い情報では以下の大森区史の明治18年の官有地権借請書の1ページにのみ名が記載されていました。因みに滑川五郎吉とありますが、丹右ヱ門の兄弟・親族なのか全く不明です。
そして、海苔の免許に関する書類が二子玉川(現在は国分寺)の東京公文書館にて検索した結果一部だけ見つかりました。
大正9年、71歳で亡くなるので5年前の66歳の時は現役であったのですね。
そして、大森漁業史に海苔ヒビ立て・養励場代表との記載が。
滑川勇次郎は親族ではない出所が違う滑川の人です。大森の滑川は、うちの一族かこちらの一族かの二通りいることが確認できています。勇次郎さんは安政年間生まれの方のようです。
また、先祖は信仰深い方で、仏壇にいくつか証書が残っています。その中でほんの数枚ですが丹右衛門の名があるものがありました。証書の名前の右に東京青山善光寺講元と書いてあります。
寺や神社に貢献した方・記念式典に参加された方は、その時に作られた石碑に名前が記載されます。
望み薄ですが、港区青山三丁目に足を運びました。
が、やはりありませんでした。
因みに幼名の粂次郎という名は多くの方へ情報収集した結果、
父から直接聞いた私の他、一人の方しか知りませんでした。
その方は曾祖父末の妹さんの長女様です。曽祖父妹さんが、普段から滑川家の色々なお話を長女さんに伝えていまして、非常に多くの事をご存知でした。当時の家族の生活ぶりが分かるようで本当にお話を伺いに行って大正解でした。やはり当時を知る方の生のお話は違います。
いかに語り継ぐということが大事だと分かります。今でも時々お邪魔して昔の話を伺ったり、調査して新たに分かったことをお伝えしたりと交流しています。正直、父が亡くなってから繋がっている親族関係の方を全員把握しました。こちらの方との交流もここから始まりました。お母様の曽祖父妹さんが平成17年に亡くなられているので、つい最近まで存命であった為「もっと早くに気にしていれば・・・」なんて思いが湧き出てきます。
しかし、仮に父が病気から回復していたら、今の大先輩方の交流や多くの情報を得られるように行動したかは分かりません。
この事から、親族関係が多い方は次の代の方へ分りやすい系図や情報をまとめたものを作成される事をお勧めします。
亡くなってから伺ってくださる方に、お名前を聞いて「この方はどの関係の、どいった方なのか分からない。」となっては失礼にあたるのではないかと思います。
話は戻り、丹右ヱ門さんがどの様な方だったかということは上記の代表や講元など残った記録から努力家であったと推察しますが、唯一曾祖父姉の末の息子さんがご存知でした。
「あっちの話をしたと思ったら今度はこっちの話をする。短時間でコロコロ話が変わるから出鱈目様と呼ばれていた。」と。
自分もよく「突然言い出すから、主語がないので何の話か分からない。」と言われることがあります。何だか引き継いでいるものを感じます。
この情報は性格・特徴がわかる唯一の情報で大変貴重なものだと思います。
因みに当家初代という事ですが、両親・祖父母は一体誰なのかという疑問です。簡潔に言いますと
戸籍が廃棄されている為永遠に分かりません。
平成19年に80年廃棄の為処分されてしまっています。
別記事でお伝えした150年に保存期限が延長されたのは平成22年。
あと3年ちょっと早ければ・・・
しかし、記録は無いものの言い伝えはあります。
元次郎さんという方。
今では自分しか知らないと思います。(家族も興味がなさそうで・・)
小さい頃に仏間掃除の際、父に粂次郎さんの前は誰か質問した所「その上は元次郎さん。でも奥さんは分からない。元次郎さんの前も分からない。」と返ってきました。
自宅の過去帖には最古の方は文政年間に亡くなられた方ですが、丹右ヱ門以前に亡くなられた方は俗名(本名)・生年・享年・続柄が何も記載されていない為全く不明です。浄土真宗の法名(別宗派での戒名)は故人の名の一文字が使われていますが、使用されていない名も多いので参考になりません。
父が知る情報は元次郎の名の他、隠居されているという事実。
全ては廃棄された戸籍を見ればわかる事。
隠居されているという事は丹右衛門戸主の戸籍に父として記載されています。もしかしたら続柄欄を見たら更に上の代が分かった可能性がありました。
相続の時に戸籍は使用されるので、曽祖父の兄弟の子孫の方々に当たってみましたが保存されている家はありませんでした。
ですが、ある事から生年月日が分かりました。没年月日は分かる為、生年が分かれば逆算して享年が算出できます。
ですが、残念な事に元号が不詳であるという事が分かりました。
不詳元年という表示だそうです。
しかし丹右ヱ門から見ると実の父なのか、または養父なのか分かりません。仮に長男であるとしたら、嘉永2年に丹右ヱ門が誕生している為
天保元年の20歳及び
文政元年の32歳の子供です。
江戸時代の為、現代とはまるっきり違うのでここからは想定になってしまう事からこの件は不詳で片づけました。
また、初めの記事で襲名という文字を出しましたが、それは父が十数年前氏神である浦守稲荷神社の氏子総代長 故平林和久氏より「元禄時代(1700年頃)の町並み調査地図に私の先祖と滑川丹右ヱ門の名がある。」と幾度となく伺ったそうです。同名という事は、名跡(代々続く名前)であると自分は判断しました。
因みに 和久氏は大森の歴史に関して大変勤勉な方で、この地の一大文化の歴史をまとめた大森漁業史の編纂に携わった方です。自分が学生の時に興味を持っていれば是非ともお話を伺いたかっただけに非常に残念に思います。
しかしながら、大森村の古地図や江戸時代の事を調べようにも中々実物や情報が見つからない現状です。
いずれ、希望を持って国会図書館に行く予定です。(→後に、元禄の検知水帳の事と判明)
最後に、元氏神神社にて見つけた明治25年頃の大森村に確実に住んでいた事が分かる村地図を紹介します。
この地図を見つけたきっかけは2代目助次郎に関係する調査がきっかけなので、それは追々お話していきます。
先祖調査:族称
前の記事に書きました、族称などについてお話したいと思います。
明治維新後、四民平等によりそれまで士農工商以下の身分であった穢多(エタ)・非人が平民に編入されました。
所説ありますが、私は主に以下のように捉えています。
穢多
死体解体や皮革処理などを死体を扱う穢(けが)れた仕事を生業とする者。
非人
乞食等を追い出す番人の役割をする者。浮浪者・犯罪を犯した者。
概ね、この解釈で問題ないと思います。
士農工商(穢多非人)は明治に族称と姿を変え、華族・士族・平民(あと卒族という下級武士の身分があったが平民に編入される)になりました。
しかし平等とは表向きで、華族には優遇制度があったり、穢多非人であった者達を新平民や元穢多と分け区別しました。
これが明治の戸籍に記載された訳で追々問題が起こります。そこで明治5年式(壬申)戸籍が封印されるに至るまでの経緯を説明します。
当時戸籍は戸主、本籍が分かれば誰でも取得できた為、婚約の相手方が壬申戸籍を取得し身分が元穢多・非人と分かり婚約破棄。また、戦後の就職の際にも壬申戸籍を先述と同じく取得し拒否される等身分を探る者が非常に多かった為、社会問題とし昭和43年法務局長通達により永久封印とされました。
そもそも「誰でも取得できる」事が問題であるのに直系血族にも見れなくするのは極端な対応だと自分は思います・・・。
因みに、この壬申戸籍は檀家寺(自分の先祖の墓がある寺)や氏神(地元神社)等の記載もあり、これまでの戸籍のイメージとは違うものです。
実は戸籍の前身とも言えるものが江戸時代にありまして、それは宗門人別改帖と呼ばれるものです。キリスト教弾圧の為、その家が何処の寺に属し、どのような家族構成であるのかをまとめたものです。
これは現代では図書館にある〇〇区史、〇〇市史等に見やすいように活字化されてまとめられています。
実は自分がこの宗門人別改帖を探しているときに「その土地の〇〇史に見やすく転載されれいる」との情報を知り、大森南図書館にて分厚い何冊もの大田区史を探りました。結果は…
先祖が記載されているものは見つからず!
そして後日ではありますが非常に残念な文を目にしました。
「大森区・蒲田区の古文書は戦災に寄り壊滅的な被害を受け大半が焼失した。」
この文を見つけた時は本当にがっかりしたものです。
唯一江戸の先祖の家族構成が分かる資料だっただけに余計に戦争を憎たらしく感じました。
戸籍に話は戻り、壬申戸籍が封印される理由となった族称ですが、後の明治19年式・明治31年式・大正4年式まで族称欄がありました。
今では全て塗抹処理(修正液)され、不自然な空欄となっています。
身分事項にも婚姻を例とすると、本来
「明治八年四月四日大森村平民滑川一郎長女入籍ス」という文が
「明治八年四月四日大森村 滑川一郎長女入籍ス」
というようになります。
実は族称以外にも人権問題視された事項がいくつかあり、一部紹介すると
「私生子」・・・婚姻関係に無い相手との子
「庶 子」・・・妾(愛人)の子
「出生、死亡の場所」・・・刑務所等の場合
等です。「私生子」の欄は今では「 子」になっています。
※女性であれば「 女」となります。
以上、色々戸籍についてお話しましたが、
ひとつ私の現存する家系最古の戸籍について思う事は・・
字が汚すぎる
手書きの戸籍の為、書いた人間が雑な字だと解読困難になります。滑川家の大正の戸籍は、現在所持している戸籍の中で一番汚いです。
大正4年式以前が特に酷い物が多い印象です。更に、旧字体だけでなく草書体、崩し字もある為、さっぱり分かりません!
参考に↓を見て下さい。私の曽祖父の姉にあたる方で、「さだ」と読みます。
左多の変体仮名ですね。
母の欄は「いそ」です。
い楚の変体仮名です。女性の場合、大正以前は変体仮名の二文字の名前が多く見られます。
更になんとまぁ酷いことに続柄を見て下さい。
長女次男となっています。実に適当ですね。
ただの誤記の消し忘れで、ある意味レアです。
そして中でも汚すぎて、無知の素人が一番解読するのに時間がかかった文が↓です。この方は初代丹右衛門の奥さんで、滑川家戸籍で唯一現存する江戸生まれの方です。元号は嘉永で2年後にあのペリーが来る時代です。
1行目読めますか?
「入籍年月日壬申以前不詳当村並木政五郎亡長女」
です。始め「入籍年内は」と見てました。そして「不詳」の文字がここの所やっと分かりました。色々な戸籍を見たり学んだりすると、自然と何が書かれているのか予想出来てきます。因みに当村との記載ですが、この戸籍は元大森村のものなので同じ村を指しで当村と書かれています。
仮に滑川町の戸籍で、婚姻や養子縁組などで同じ町の戸籍に移動してのあれば、当町〇〇となります。
壬申(明治5年)以前の入籍なので、江戸時代に結婚されているという事ですね。しっかり記載されていた物も見たことありますが、文久や慶応といった幕末での入籍でした。
この、みなさんの母については
「原戸籍ニ因リ知ル事能ハサルニ付記載省略」と書かれています。
つまりこちらの改正原戸籍(明治書式)に書かれていない為知る事はできないという意味です。
因みに写真は現存していない為、どのような顔なのか分かりません。理由は写真が嫌で逃げ回っていた為です。
当時は写真を撮ると魂を抜かれてしまうという考え方もあったみたいです。
カメラで頭を過りましたが、かの最後の将軍。徳川慶喜は晩年カメラに没頭されていたようですね。徳川の将軍は大正まで生きておられたと考えれば、そう昔の話でもない気がしてきます。
戸籍の話に戻ります。漢数字も今とは違い、
「明治拾弐年参月拾日誕生」等、慣れないとすらすら読みにくいです。なんにせよ、調査を始めた時より圧倒的に知識が増えたので、この面の成長は自分ながら嬉しくなります。
最後に、上記の「誤記の消し忘れ」に関してですが、現在取得できる古い戸籍に稀ではありますが族称や私生子等の消し忘れがあるものが存在します。あったらラッキーですのでよく読み取ってみて下さい。