先祖:初代丹右ヱ門
ブログのタイトルでもある、丹右ヱ門についてお話します。
嘉永2(1849)年誕生で、当家の初代となる方です。
幼名粂次郎。明治25年以前は産業道路を挟み、大森中中央病院の裏の土地に住んでいました。
実は、当家はいつから・誰から海苔養殖に携わるようになったのかは不明です。
確実に記録に残っているのは丹右ヱ門で、現在一番古い情報では以下の大森区史の明治18年の官有地権借請書の1ページにのみ名が記載されていました。因みに滑川五郎吉とありますが、丹右ヱ門の兄弟・親族なのか全く不明です。
そして、海苔の免許に関する書類が二子玉川(現在は国分寺)の東京公文書館にて検索した結果一部だけ見つかりました。
大正9年、71歳で亡くなるので5年前の66歳の時は現役であったのですね。
そして、大森漁業史に海苔ヒビ立て・養励場代表との記載が。
滑川勇次郎は親族ではない出所が違う滑川の人です。大森の滑川は、うちの一族かこちらの一族かの二通りいることが確認できています。勇次郎さんは安政年間生まれの方のようです。
また、先祖は信仰深い方で、仏壇にいくつか証書が残っています。その中でほんの数枚ですが丹右衛門の名があるものがありました。証書の名前の右に東京青山善光寺講元と書いてあります。
寺や神社に貢献した方・記念式典に参加された方は、その時に作られた石碑に名前が記載されます。
望み薄ですが、港区青山三丁目に足を運びました。
が、やはりありませんでした。
因みに幼名の粂次郎という名は多くの方へ情報収集した結果、
父から直接聞いた私の他、一人の方しか知りませんでした。
その方は曾祖父末の妹さんの長女様です。曽祖父妹さんが、普段から滑川家の色々なお話を長女さんに伝えていまして、非常に多くの事をご存知でした。当時の家族の生活ぶりが分かるようで本当にお話を伺いに行って大正解でした。やはり当時を知る方の生のお話は違います。
いかに語り継ぐということが大事だと分かります。今でも時々お邪魔して昔の話を伺ったり、調査して新たに分かったことをお伝えしたりと交流しています。正直、父が亡くなってから繋がっている親族関係の方を全員把握しました。こちらの方との交流もここから始まりました。お母様の曽祖父妹さんが平成17年に亡くなられているので、つい最近まで存命であった為「もっと早くに気にしていれば・・・」なんて思いが湧き出てきます。
しかし、仮に父が病気から回復していたら、今の大先輩方の交流や多くの情報を得られるように行動したかは分かりません。
この事から、親族関係が多い方は次の代の方へ分りやすい系図や情報をまとめたものを作成される事をお勧めします。
亡くなってから伺ってくださる方に、お名前を聞いて「この方はどの関係の、どいった方なのか分からない。」となっては失礼にあたるのではないかと思います。
話は戻り、丹右ヱ門さんがどの様な方だったかということは上記の代表や講元など残った記録から努力家であったと推察しますが、唯一曾祖父姉の末の息子さんがご存知でした。
「あっちの話をしたと思ったら今度はこっちの話をする。短時間でコロコロ話が変わるから出鱈目様と呼ばれていた。」と。
自分もよく「突然言い出すから、主語がないので何の話か分からない。」と言われることがあります。何だか引き継いでいるものを感じます。
この情報は性格・特徴がわかる唯一の情報で大変貴重なものだと思います。
因みに当家初代という事ですが、両親・祖父母は一体誰なのかという疑問です。簡潔に言いますと
戸籍が廃棄されている為永遠に分かりません。
平成19年に80年廃棄の為処分されてしまっています。
別記事でお伝えした150年に保存期限が延長されたのは平成22年。
あと3年ちょっと早ければ・・・
しかし、記録は無いものの言い伝えはあります。
元次郎さんという方。
今では自分しか知らないと思います。(家族も興味がなさそうで・・)
小さい頃に仏間掃除の際、父に粂次郎さんの前は誰か質問した所「その上は元次郎さん。でも奥さんは分からない。元次郎さんの前も分からない。」と返ってきました。
自宅の過去帖には最古の方は文政年間に亡くなられた方ですが、丹右ヱ門以前に亡くなられた方は俗名(本名)・生年・享年・続柄が何も記載されていない為全く不明です。浄土真宗の法名(別宗派での戒名)は故人の名の一文字が使われていますが、使用されていない名も多いので参考になりません。
父が知る情報は元次郎の名の他、隠居されているという事実。
全ては廃棄された戸籍を見ればわかる事。
隠居されているという事は丹右衛門戸主の戸籍に父として記載されています。もしかしたら続柄欄を見たら更に上の代が分かった可能性がありました。
相続の時に戸籍は使用されるので、曽祖父の兄弟の子孫の方々に当たってみましたが保存されている家はありませんでした。
ですが、ある事から生年月日が分かりました。没年月日は分かる為、生年が分かれば逆算して享年が算出できます。
ですが、残念な事に元号が不詳であるという事が分かりました。
不詳元年という表示だそうです。
しかし丹右ヱ門から見ると実の父なのか、または養父なのか分かりません。仮に長男であるとしたら、嘉永2年に丹右ヱ門が誕生している為
天保元年の20歳及び
文政元年の32歳の子供です。
江戸時代の為、現代とはまるっきり違うのでここからは想定になってしまう事からこの件は不詳で片づけました。
また、初めの記事で襲名という文字を出しましたが、それは父が十数年前氏神である浦守稲荷神社の氏子総代長 故平林和久氏より「元禄時代(1700年頃)の町並み調査地図に私の先祖と滑川丹右ヱ門の名がある。」と幾度となく伺ったそうです。同名という事は、名跡(代々続く名前)であると自分は判断しました。
因みに 和久氏は大森の歴史に関して大変勤勉な方で、この地の一大文化の歴史をまとめた大森漁業史の編纂に携わった方です。自分が学生の時に興味を持っていれば是非ともお話を伺いたかっただけに非常に残念に思います。
しかしながら、大森村の古地図や江戸時代の事を調べようにも中々実物や情報が見つからない現状です。
いずれ、希望を持って国会図書館に行く予定です。(→後に、元禄の検知水帳の事と判明)
最後に、元氏神神社にて見つけた明治25年頃の大森村に確実に住んでいた事が分かる村地図を紹介します。
この地図を見つけたきっかけは2代目助次郎に関係する調査がきっかけなので、それは追々お話していきます。