大森海苔 丹右ヱ門の記憶

~300年の歴史がある海苔漁場であった大森の過去と現在~

蒲田八幡祭礼

大分遅くなりましたが、月始めに蒲田八幡神社の祭礼に行ってきました。朝7時30分出発で向かいます。
こちらは以前お話しした江戸前担ぎです。

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昼過ぎになると京急蒲田駅のアーケード内を進んでいきます。ここでは、拡声器で「○○会様!」と呼ばれ、その団体が花棒という神輿前方の担ぎ棒に集まって担ぎます。1分も無いくらいでしょうか、

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次々に「○○青年会様!」と呼ばれていくので頻繁に入って抜けてを繰り返し、巡行中一番熱くなるところです。

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そして蒲田駅の目の前を一周し神社へと戻って行きます。他の町会神輿も複数出ており、物凄い見物客の量でした。


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駅の近くで和太鼓の演奏もやっていたので少し見ていきました。和太鼓の身体を突き抜けるような音は非常に魅力的です。いつか和太鼓をやってみたいと思いつつ、以前調べたときにレッスン代が高額であった為諦めた事がありました。人生の幅を増やしたいのでいずれ挑戦して行こうと思います。

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今週は萩中の祭礼です。仕事で参加できませんが、こちらも羽田同様ヨコタ担ぎです。


萩中といえば、二代目である高祖父の奥さんである大山いそ氏の故郷です。入籍後の明治の戸籍に番地記載はなく、「羽田村大字萩中」としか書いていないので、現在も家が続いているかは不明です。
かなり裕福な家ということを聞いていますが、自宅にある昭和初期の香典帳や控帳の大山姓の名を控えて大山宅へ訪問して発見したいと思います。特定できて、数世代遡れば御の字です。

羽田神社例大祭

7月の週末金土日の三日間は羽田神社の祭礼です。

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私は本日、日曜日の午後から参加してきました。

今年は祝奉 天皇陛下御即位記念として、55年ぶりに牛車が出ました!
その前は昭和39年の東京オリンピックの時で、現在全国に広がる海苔養殖の技術を確立した大森の海苔漁業が完全に終了した年でもあります。


牛車は鳳輦渡御(ほうれんとぎょ)といい、起源は御輿より古く古代中国の皇帝等が乗られていたものです。
因みに鳳輦(ほうれん)は鳳凰の飾りがてっぺんにある神輿で、渡御(とぎょ)とは列をつくって町を巡行することです。


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あいにく、午前中は行けなかったので生で見れることが出来ませんでした。下の写真は会の先輩が撮られたものです。


12時には鳳輦渡御宮入の為、私が到着した12時30には完全に牛はいなくなっていました。
話を聞くと、牛はなんと京都から一頭40万でレンタルしてきたとか。牛も長旅だったんですね。



午後3時より、パレードが始まります。
羽田神社の祭礼は14町会の連合であり、14基の神輿が集まります。して、集まる場所は橋を渡り羽田空港が見える所です。
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羽田神社例大祭は担ぎ手3000人、
見物客30000人とも言われています。

橋には、かつての漁師町を彷彿させる大漁旗に会の名前が記載されています。

因みに鳥居が見えるも、本殿は見えないと疑問が出てくると思いますが、これは戦争が大きく関わっています。


話は逸れますが、羽田が出来たのは江戸時代中期。埋め立てによって出来た土地であり、それゆえに水害を多く受けていました。開拓していくにあたって、それらから守るために穴守稲荷神社(文化元年)が建てられました。(現在の穴守稲荷は移転したもの)
穴守の由来は、堤防が決壊し水害にあった後に堤防の上に社を建てたら海の荒れがおさまった為、「堤防に開いた穴の害から人々を守る」という意味からつけられています。

明治になると温泉が湧き、旅館が建ち、潮干狩りなどを楽しめる場となり観光地となりました。

1931(昭和6)年8月25日には羽田空港が開港され、日本の玄関となりましたが戦後1か月後の1945(昭和20)年9月21日にGHQによって羽田一帯を没収され、軍用地にする為羽田の住民に48時間以内の強制撤去を命じます。(しかも、これは警察らが交渉して延長したものであり、初めは12時間以内の強制退去という鬼畜ぶりである。)

それも羽田江戸見町、羽田穴守町、羽田鈴木町に住む3000人にです。人々は泣く泣く生まれ育った土地を、発表されてから僅か二日で離れることになってしまいます。敗戦国の定めですがなんとも横暴ですね。

同時に、羽田空港にあった穴守稲荷神社は撤去されました。しかしながら、上の写真の赤い大鳥居はどう撤去しようにも作業中の事故・作業員の病死が続いたため、「祟り」を恐れて大鳥居だけはそのまま点在し続けていました。

戦後半世紀過ぎてもそのままでしたが、羽田空港の拡張の祭に、ど真ん中に点在する鳥居は空港というものを考えると非常にじゃまになってしまうので、住民の希望もあり撤去せず移転することとしました。
現在の土地に移動したのは平成11年2月。私が9歳の頃です。関係者が祈祷をしたりと、非常に慎重に行ったとの事でした。

そのような経緯があり、現在のポツンとした大鳥居の姿があるわけです。
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話は祭礼に戻りまして、
時間になったら順番に巡行が始まります。
ここ、羽田神社の担ぎ方は以前説明した船が大波で揺れる姿を表すヨコタ担ぎです。

「よこー、たてー、はいーれ、一二の三!」の号令で左右の担ぎ手が跳ねて神輿を大きく揺らします。

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まずは、神輿が上がって揺さぶる。そして
橋を渡り、そこで長めに揺さぶる。

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ここから産業道路へ向かって進みます。
ヨコタ担ぎはある程度の時間揺さぶったら、
「よい、よい、よいよい!」の号令でヨイトという神輿を水平に運ぶ進み方に変わります。

「ヨイト、ヨイト…」と移動していき、
ある程度進むと再び、

「よこー、たてー、はいーれ。一二の三!」で神輿を揺らす。このように練り歩きをしていきます。


途中、高架下をとおりますがここではかなり長く5分以上揺らし続けます。
ヨコタ担ぎは跳び跳ねる方も、軸を支える芯の方もかなりきついです。その為、ここでは頻繁に入れ替わります。
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本日は午前は雨でしたが、午後はからやんで暑い中の巡行でした。
給水所では、航空会社の方がお茶やレモン水を配られていました。


産業道路前までいくと休憩に入ります。

そして、休憩後に宮司による祈祷の後に、14町会の神輿がそれぞれの神社へ戻っていきます。


そして宮入です。
非常に長く十数分揺らしていまして、私も間間に入ってげっそりしてました。

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終えたあとは三本締めで終了。今日はよく動きました。
因みに、担がないつもりでいましたが、今の自分が何処まで通用するかというのと、やはり見ているだけではきついというのもあり、頻繁に入っていました。

おかげで肩に神輿だこができかかったので、よーくマッサージして悪化しないように処置したいと思います。

来週は行けるか分かりませんが、蒲田神社祭礼です。こちらは江戸前担ぎなので、是非いきたいですね。

一橋大学へ

二週間程前、大田区史に記載されている元禄時代武蔵国六郷領西大森村検地水帳の原本である古文書を見に、所蔵されている国立の一橋大学付属図書館へ行ってきました。



見事な建物が目に入ります。
この環境だと、嫌いな勉強でもやる気が起きる気分になります。

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予めメールにて見たい史料の予約をしていたので、受け付けもスムーズにいきました。


上記の検地水帳に合わせて元禄時代大森村絵図も用意して頂き、1600年代後期の史料を生で拝見させて頂きました。


保存状態が非常に良く、とても300年以上経ったものだとは思えません。
写真は丹右ヱ門が記載されている所を中心に撮っていきました。
丸々貼付すると問題があるため、一部のみ紹介します。


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中田弐畝廿歩 丹右衛門

とあります。江戸時代の土地の単位は、

町 ちょう  3000坪
反 たん   300坪
畝 せ    30坪
歩 ぶ    1坪(たたみ二畳)

となっております。

中田とは、田んぼの等級のことを指します。

田んぼも、畑も収穫量によって上、中、下とランク付けされます。つまり畑だと上畑、中畑、下畑となります。
つまり、この土地は中ランクの田んぼ60坪を丹右衛門が所有されているという事です。

因みに、廿は20の事です。古い戸籍や過去帳、古文書には20日の事を廿日と記載しております。これは百や千と同じような漢数字です。
異体字として卄という字も同じ意味で使用されます。


他にも丹右衛門名義の田、畑、屋敷があり元禄当時どれだけのものを持っていたのかが分かりました。
郷土資料の当家の聞き込み資料では、昭和初期まで蒲田や糀谷の所有する土地で米を作り売っていたと記載されていました。
半農半漁時代の姿がうかがえます。

にしても、この丹右衛門は何代目なんでしょうか。
最後の丹右衛門、粂次郎が当家の初代となりますが、年数から考えても10代は越えているのかと思われます。…なぜこの様な大事なことを伝承されていないのかが不思議です。
因みに、私が加入しているコミュニティで先祖名、兵右衛門を持つ方で、薬商売をされたのれんに(十二代 兵右衛門)の記載があり代数が分かったなんて羨ましいお話がありました。



大田区史にはこちらだけでなく、慶應義塾大学に明治2年の田畑帳を所蔵していると記載が。
大学の所蔵されているデータベースを見ると当、荏原郡大森村の資料がありました。

まだまだ調べる価値はありそうです。

水止めの舞

14日の日曜日は東京都の無形民俗文化財に指定されている厳正寺の水止舞を観に行きました。

 

水止舞は約680年の歴史を持ち、起源は鎌倉時代の元亨元(1321)年にまで遡ります。

当時、武蔵国(現:関東)が大干ばつ被害に遭った時に住職がワラで竜神を作り7日間祈祷し雨を降らせました。

しかし、その2年後に長雨が続き田畑が流出してしまった為、農民は以前の感謝を忘れて「あの時の雨ごいのせいだ」と住職を責めます。

その為住職は獅子の頭を3つ作り『水止(しし)』と名付けて農民に被せて太鼓を叩きながら舞わせ、ほら貝を吹いて龍神に雨を止ませる様に祈祷したところ雨は止み、農民は感謝して今後天変地異の際はお寺に「水止舞」を捧げるようになったといいます。

 

 

必用時には頼り、問題があれば責め立てる。何とも勝手な話ですね。

 

因みにこちらの舞は保存会もあり現在まで続いていますが、かつては厳正寺舞というものがありました。こちらは第二次世界大戦により、踊り手が戦死された為途絶えてしまいまったそうで何とも残念です。

 

 

 

開催は13:00~15:00までの時間です。去年も今年も夜勤明けで観る事が出来ましたが、どちらも仮眠している間にいつも開始時間を過ぎてしまい、いつも途中からの鑑賞です。


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始まりは、ワラで渦巻き状に編んだ雌雄の龍神2体の中に一人ずつ入り、ほら貝を吹きながら水をかけられ道をゴロゴロ転がされます。

 

そしてお寺に入り舞台に上がって舞が始まりますが、私はいつもこの舞からしか見たことがありません。当日は雨であった為にお寺の正面の魚屋から始まったそうですが、いつもは150m程離れた大森東中の正面から始まります。

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到着してからは、先にお墓参りを済ませて鑑賞しました。

観に来ている方は数人外国人がいたり、休日という事もあり結構な人数でした。伝統行事の為、地元テレビ局も来ています。

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舞台前側には太鼓を鳴らし足踏みをしている獅子3人、華籠という赤い被り物をしている左右の2人がさらら(楽器のギロの様なもので、さららは稲穂が擦れる音で五穀豊穣の意味)というものを擦らせ、舞台後側の方が吹く笛の音と共に水止めの舞いは行われます。


語り手はいつも調査でお世話になっている長老がされています。10代から携わっている為70年近く続けられています。いつまでも元気でいて頂きたいですね。

 

終わったあとは舞台前に関係者が集まり写真を撮ります。

そのあとに獅子の頭を希望者に被ってもらい写真撮影も出来ます。

これには「頭痛が治る」という言い伝えがあります。


小雨が続いていましたが、舞が終わる頃には丁度良く雨が止んでいました。

思わず信じたくなるようなタイミングです。

 

終わったあとは長老に挨拶し、寺を後にしました。

 

そして夕方には神社へ、先月の京都旅行の報告会である鎮座式に参加して来ました。この時に耳にしましたが、今月末にある羽田神社祭礼では見事な大神輿が出る年だ思ってましたが、こちらは出ずに50年振りに牛舎が出るという事でした。

大神輿を楽しみにしていたので残念ですが、貴重な牛舎を見て来たいと思っています。

この日、神輿は担がない予定です。理由は『ヨコタ担ぎ』という船が大波で揺れている姿を表わす独特の担ぎ方で、一定の時間左右に大きく揺らし、担ぎ手はジャンプし続けるという中々きつい担ぎ方だからです。数年前、初めての参加で足を壊し回復まで大分時間が掛かったもので…。

 

因みに浦守稲荷神社の担ぎ方は知らない人でも神輿と言えば想像がつく『江戸前神輿』です。

ワッショイ、ワッショイやエイサ、エイサの掛け声で練り歩くというもの。私はこちらが一番好きです。


信州善光寺

5月には腰を壊して行けなかった善光寺へ再チャレンジしました。
善光寺といえば、誰もが人生に一度は行くべき所と言われています。
今回も石碑調査に向かいました。


東京からかがやきで長野駅へ出発し、

約二時間で到着。

丁度昼に着くようにしたので、駅内で昼食にします。


明治亭というカツ屋が気になったので、ここに決めました。信州鹿と信州豚のソースカツ丼です。
鹿肉はさっぱりしていて美味でした。

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外に出ると駅がの綺麗な外装が目に入ります。

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駅から善光寺へは2㎞あり、バスで片道150円で行けますが道中楽しみたいため歩いて向かいます。 



道中寄り道をして、とある寺に凄いものがありました。なんと700年も前のお墓です。

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そしていよいよ信号を渡り、善光寺へ到着。

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敷地から仲見世通り、山門にかけて石畳が敷かれています。これは、1700年代に二名の方より寄進されたもので、長野市文化財になっています。

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歩いていくと仁王門が目に入ります。
こちらの建造は宝暦2(1752)年ですが、弘化・明治と火災で焼失し、大正7(1918)年に再建されたものです。

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更に歩いていくと見事な山門が。
こちらはなんと、寛延3(1750)年に建てられ大地震を耐え、火災を避けられて平成の大改修(2002~2007)まで当時のままでした。改修は老朽化によるもので、建築年数と同じ5年がかりで行っています。

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門の中には全国の善光寺と名のつく寺の数などが日本地図で説明されています。


そしていよいよ本堂へ。
こちらは度々火災にあうも、元禄の火災を最後に徳川幕府の命で7年かけて宝永4(1707)年に再建され今に至ります。明治28年に国宝指定されています。

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当家は代々善光寺でも先祖供養をして頂いており、その証書が数枚神棚に残されています。
せっかくなので父の三回忌の祈祷をお願いしました。

指定された時間に集合し、首から帯をかけて本堂へ向かいます。祈祷申込み者は一般参拝者よりも前に行けます。
今回はなんと自分一人のみの申し込みであり、お坊さんからも「本日は貸しきりでございます。」と壇の前に正座し背後から数十人の視線を感じながらの祈祷でした。


その後はお戒壇巡りという、極楽浄土へ行けるようにする為に、ご本尊の下を一周(45m)回る行事があります。こちらは、本堂の階段を下りると真っ暗闇です。右手で壁を伝いながら前の人とぶつからないようにゆっくりと歩いていきます。
因みに、途中に極楽の錠(壁についている輪)というものがあり、それに触れると極楽浄土が約束されるとか。
前の方の人が触れる音が聞こえましたが、私は分からずにそのまま通りすぎてしまいました。


そもそも私は死後の世界は信じていないから特にどうといった訳ではないですけどね。



本堂を後にして、西側にある大勧進(だいかんじん)という所に向かいました。
こちらの門はなんと寛政元(1789)年建造です。

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奥には武田信玄上杉謙信らの位牌が安置されています。善光寺は戦国武将でも馴染みのある場所なんですね。
因みに、門前の橋から下の池を見るとアカミミガメが数匹見えます。その中にスッポンが一匹だけいましたのでとりあえず撮影しました。

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最後に、大勧進の隣にある大本願という所に寄って事務の方と色々な話をして善光寺を後にしました。


敷地内の石碑や名が刻まれている灯籠など全て目を通しましたが、先祖の名が記載されているものはありませんでした。



そして歩いて長野駅方面へ戻り、ホテルに向かいます。いつも遠出の時は、源泉かけ流しの温泉付きの歴史ある旅館を選んでいますが今回は節約して、運びの温泉があるビジネスホテルにしました。

暗くなってから町へ夜遊びに行き、腹ごしらえをしてホテルに戻りテレビでお笑いを見ていました。
これはYouTubeが見れるテレビで、とりあえずおすすめに上がってたのを見て深夜を迎えました。

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ここから調査とは関係ありません。せっかく遠出したので観光に行きます。長野駅からバスで松代へ向かい、六文銭の真田家に関する家・武家屋敷を見て回りました。
因みに観光案内所にて、300円で夕方まで自転車を借りることが出来ますのでこちらを利用しました。(水曜日は定休日がかなり多かったです)


屋敷を一通り回り、松代象山地下壕という所へ行きました。
ここは第二次世界大戦末期に本土決戦の砦に極秘に作られたものです。労働者には多くの日本人・朝鮮人が働かされ、多くの方が亡くなっていきました。
終戦後、証拠隠滅の為に関係史料は全て焼却されて真実は闇に葬られました。その為、どのくらいの人数で誰が亡くなったのかすら分かりません。
大日本帝国時代は上の考えがとても恐ろしいです。仮に戦争に勝利していたら今でも軍事国家で、貴族制度も継続していたのではないでしょうか。

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内部は非常に広い直線になっています。公開しているのは黒い部分のみです。

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観光は無料。ヘルメットは必ずして行きます。
どんどん進むにつれて、当時の過酷な映像が頭に浮かびます。内部は私一人なので少しばかり恐怖感がありました。

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最深部は急にかなりカビ臭くなりました。
一定の距離にまとまってトンネルを支えている丸太に真っ白で大量のカビが生えていた為です。

胞子をなるべく吸い込まないように行き止まりまで確認し、来た道を引き返しました。

戦争当時の環境に行くといかに今が恵まれているのか改めて感じられます。


最後に真田家を祀ってあるお寺へ墓を見に行きました。ここは安永、天明、弘化等の江戸時代のお墓がゴロゴロあります。
当家の菩提寺は歴史は1200年代からですが、ほぼ昭和からのお墓で江戸時代のものはほぼありません。
戦災の被害の有無で大分変わってきますね。

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小腹が空いた為、焼きたてのパン屋さんでアンパンマンの顔をしたチョコパン、クリームパン、フレンチトーストを食べていきました。ふわっふわでクリーム・チョコがたっぷり入っており味も大変美味でした。あまりに美味しかったので、新幹線用にも買っていきました。店員のおばさまは大喜びです。

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そして帰路へ着きました。



当家ゆかりの寺社。
残すは和歌山の高野山、三重の伊勢神宮となりました。正直もう石碑は期待せずに観光目的でいずれ向かおうと思います。

全国の稲荷神社総本山

15日、16日と青年会の京都旅行で伏見稲荷大社へ正式参拝に行ってきました。

当会は祭礼が無事に終わった報告として、毎年一週はさんで伏見稲荷へ参拝しに行っております。

伏見稲荷といえば、外国人が行きたいランキングでトップになっている所です。何処を見ても外国人だらけ。特に中国が多いです。
あまりのマナーの悪さに、出店が無くなったと聞きましたが境内には普通にありました。

そして、その中にあった串焼きの店で神戸牛串が一本2000円はさすがに驚きました。


門を潜って半纏着用の上、正式参拝です。
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その後に社務所にて神主さんのお話を伺いました。
社務所内は非常に美しく、入り口には手水舎があり通路を進むとガラス張りの廊下に庭園が見える見事な光景です。非公式になっている為、写真アップは控えました。
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その後から数名で別の観光コースを楽しみました。
河原町の方を周りましたが、とあるカフェに長蛇の列が見えました。店員さんに伺うと、ゼリードリンクが流行っているそうな。

東京でタピオカがかなり流行っていますが、同じようなものですかね。


夕方に宿へ到着し、一休みして宴会です。
和牛尽くしで中でも握りが一番美味でした。

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そして
夜は各々方、グループ別で音楽を聞きに行ったり、料亭へ行ったり、宿で休んでいたりと好きなように活動されます。

私は例年、先斗町(ぽんとちょう)の鴨川納涼床へ行っております。
夕方より雨が降っていた為に座敷でしたが、
なんと貸し切り状態でした。
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こちらのお店に通うのは3度目になりました。ハモの湯引きが非常に美味で、梅肉で頂きます。
去年はカナダの方がいたり、床どこで風が結構吹いて極寒だったりでしたが、今年は貸し切り状態なのでのんびりと出来ました。


そして最後に小さならぁめん屋に寄ります。
またしても貸し切り状態になりましたが、豚の角煮・水餃子・ぎとぎとのらぁめんを食べて終了です。
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珍しく日を跨がずに宿に帰りました。






そして二日目は護王神社で正式参拝です。
ここは奈良時代の伝説で猪が出てきます。故に境内は猪の剥製や木彫り等が大量にあります。
因みに、足腰の守護としても有名です。腰を痛め続ける私にとってうってつけですね。
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その後に嵐山、渡月橋(とげつきょう)付近の料亭で昼食をとります。

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特に右下の茄子が柔らかく味が染みて美味しかったです。

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その後もグループ別に宿に戻る人・祇園・麹町等好きなように別れます。
私は祇園に行って来ました。丁度雨が降って来て神社、通りを手短に散策し宿に戻りました。




少しロビーで休んだ後に送迎バスで京都駅へ向かい、品川まで新幹線で。そしてタクシーで地元に帰ってきました。


天候がそこまでよくなかったですが、激しい雨は避けられて暑さもなく良い京都旅行になったと思います。

去年は帰ってきた次の日に関西の大地震で新幹線が止まったので危うく難を逃れました。

にしても最近地震が多いですね。東北の時の様に巨大な地震が一度に来る位なら、震度5クラスがそれなりに来てエネルギーを分散してくれたらどれだけ良いかなんて思ったりしますが、改めて地球は生きているんだと感じさせられると共に自然の恐ろしさを認識出来ます。


はやくも、6月が終わります。
7月14日には無形民俗文化財に指定されている680年の歴史がある「厳正寺水止めの舞」があります。
当日は夜勤明けの為、見ることが出来るのでたのしみです。

遠縁の再会

以前の内容に書いた置き新屋についてです。

高祖父の兄弟子孫とはもう半世紀程付き合いはありませんが、その一族が何処に住まれているかは調査で判明していました。しかし、一人だけこちらの家の方については全く情報がありません。

二年前に最古である控帳の昭和15年の曾祖父末の妹さんの婚姻のものを長老に見て頂き判明した高祖父弟、丹右ヱ門三男の横山冨蔵さん。
その長男である方の名前までギリギリ高祖父の香典帳で確認出来ましたが、昭和31年のこの時が最後になりました。




そんなわけで、子孫の方と面会できた流れについて書いていきます。

長老の情報を元になんとしても特定したい、しかしながら昭和中頃からの控え帳に名はありません。ただ、横山に改姓しているという事実と、家は昭和30年代から無いという手がかりのみでは中々難しく、その近場に子孫の家がないか確認するも横山姓は一軒もありません。

もしかしたら断絶してしまったのではないかという思いが強まってきました。家が無くなり断絶してしまうことを戦前の旧民法では「絶家」といいます。
ちなみに親族が絶家した家に入り復興する事を「廃絶家再興」といいます。

例にすると、サザエさんの一家が海外移住等で全員いなくなり、ノリスケが磯の家(自宅)に入り「家」を続けさせるというイメージです。




そんな中、「そういえばお墓はどうだろか」という考えが浮かびました。当家は浄土真宗ですが、横山家は宗派が分かりません。調べてみるにこしたことは無いため、菩提寺の数百の墓石を片っ端から見て周りました。知らない別一族であろう滑川家の墓もいくつかありましたが、横山姓も当寺に多く見られ、ほぼ家紋は丸に違い鷹の羽(ちがいたかのは)です。

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墓石の見回りが終りそうになった頃、一つの横山家の墓石が目に入りました。よく見ると、家紋が当家と同じく丸に三ツ割木弧(みつわりもっこ)です。

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さらに墓石側面の施主を確認すると、冨蔵氏の長男の方の名が掘ってあります!これは間違いなく探している横山家の墓です!
今でも残っているということは管理する子孫がいることを意味します。様子としてはしばらくお参りに来られた様な形跡はありません。
でも見つかった事に感激しました!

この日には気づきませんでしたが、後日改めて確認した後に寺の年忌法要俵を確認しに行きました。
するとなんと長男の方と思われる法名の33回忌の施主の名が、長男の一文字を使った名前でした。これは間違いなく子孫の方です。
そして電話帳で調べて緊張しながら電話をするも使用されていないアナウンスが流れました。

更に別日、グーグルマップで住所を調べて自転車で15分程度の場所にあった為、家を確認しに行くと施主の名に記載されていた冨蔵氏の孫と思われる方の標識がありました。是非ともお会いして話を伺いたい!まずは怪しまれない為に手紙を書きポストに投函します。
2か月くらいでしょうか。全く音沙汰がありません。もしかしたら怪しまれてそのままにされたか、以前あった様にルーツ調べに否定的な方であるのかもと不安になります。

もう、直接伺うしかありません!
あらかじめ手土産と証拠となる冨蔵氏の名が記載されている書類を持ちインターホンを鳴らします。しかしながらいらっしゃいません。改めて別の日に行くことにしました。しかし中々会えません。

結局半年以内に6回程伺ったでしょうか。全くいらっしゃいません。もしかしたら入院?それとも入口のバリアフリー環境を見る限り施設通いをされているのか。最悪空き家になっている可能性も浮かんできました。でもここまで来て諦めきれません。

私はこの春に体づくりの為にジムに行きはじめました。夜勤明けの日にジムで19時辺りまで運動して帰りに明かりが点いているのかダメもとで見に行くことにしました。実はこれまでは午前中、昼過ぎ、夕方と伺いましたが、迷惑になってしまうと思い夜の時間は避けて行ってませんでした。

すると明かりがついています!何にも持ってきていませんが、せめて確認だけでもとインターホンを鳴らします。
すると男性の方が出てこられました。「以前、お手紙を送らせて頂いた者で…」と挨拶した所、「あぁ、飲んで忘れてたよ。ごめん。」と仰います。この時点で否定的な方ではないと確信しました。続いて先祖の方は冨蔵さんであるか、昔置き新屋と呼ばれていなかったか確認すると「そう!じいさんが冨蔵!」と明るく答えます。

遂に、ようやくお会い出来ました。一時期諦めていましたが探していた明治11年に生まれの高祖父弟冨蔵氏のお孫さんです。すかさず、何年まで存命で死因は何だったのか伺いました。昭和28年、72歳で交通事故で亡くなったとの事でした。手紙に写真や昔の資料が残っていたら見せて頂きたい事を書いていた為「残念だけど何にも残っていないんだ。ごめんね。」とそのまま戻られそうな雰囲気でしたので、せっかく面会出来たのにと思いスマホで撮っていた明治の戸籍を用意し「実は、ここの所当家の明治の戸籍が見つかりまして冨蔵さんも記載されておりまして…」と声をかけた所、「…上がってく?飲んでたから特に何もないけど。」と。まさかの展開です。有難くあがらせて頂きました。


夕食の時間である為、ホットプレートで焼き肉をされており、お酒と共にごちそうして頂けました。
私が調べた当家の情報を話しながら詳しく昔の話を伺います。現当主は78歳のお酒が大好きな方でした。なんと当家に来たことがあるとの事。父が生まれる1年前、昭和27年が最後に行った日との事。冨蔵氏が28年に亡くなられてから、お付き合いはほぼ無くなったそうです。どおりでそのあたりの年代から控帳に横山姓が見当たらないわけです。そんな訳で、半世紀程の時を経て明治の分家と本家の子孫が再会したわけです。


置き新屋について伺うと「その土地には3本の木が生えていたから三本木って呼んでいたと聞いているよ。」と初めての情報が出てきました。残念ながら、ご当主が産まれた時にはもう無かったとの事。
色々と伺うと冨蔵氏の兄である家、向河岸の事を知っていました。何でも、海苔時代にその親族と付き合いがあったとの事で、今はもう知らないそうです。
因みに冨蔵氏について伺うと「酒と博打が大好きだったな。ただ、女遊びだけはしなかった。事故に遭った日も博打をしに梅屋敷(京急線)に行ってタクシーにぶつけられた。その瞬間を向河岸の親族が目撃して、『なんか似ているな』と家に連絡が来てそれで分かったんだ。事故の時は信号機が無かったけど、この事故を境に信号機が設置されたんだよ。」と、当時の大変貴重なお話を聞かせて頂きました。

滑川家については残念ながら冨蔵氏はあまり話さない方であり、その息子さんも同様な方であった為に伝承は伝えられていませんでした。
横山家のお話も伺うと「お袋は埼玉から海苔で本家に奉公に来ていたんだよ。」と更に知られざる情報を聞けました。
どんどん新たな情報が増えて嬉しい限りです。
他には旅行が好きとの事で、私自身も1、2か月には遠出するくらい好きな為話がはずみます。気づいたら21時30分手前で、2時間以上話していました。もう遅くなった為、ここでおいとまさせて頂きましたが「今度来るときは家の目の前に自転車を止めるといいよ。」と言って下さりました。中々陽気な方で楽しい時間を過ごせました。



この日はダメもとであった為、別日に改めて伺い冨蔵氏が戸主の除籍謄本をみたいため委任状にサインして頂きました。
勿論、この時は資料も持っていき、前回のお礼として旅行で購入した群馬のお酒を手土産に伺いました。
最古の控帳を見て頂くとまさかの冨蔵氏の娘さんたちの嫁ぎ先の方々の名が記載されている事が判明しました。ご当主は喜ばれ、今で唯一付き合いがある兄弟の様に育った従兄弟の方(79歳)を紹介して頂きました。こちらの方は現役で働かれている為いずれ日を見て3人で会う事を約束しました。シフト次第ですがとても楽しみです。


最後に土地についてです。
元本家であった置き新屋は長老が結婚(昭和30年代)するときには無くなっていたと聞いていました。
謄本を見て判明したことですが、こちらは置き新屋から転籍した土地でした。

転籍の記録を見るとb>当家が建った昭和3年の次の年に長老が無くなったと言っていた土地に転籍したと記載されていました。
年代的に大正の大震災で被害を受けたのでしょうか。
つまり昭和4年には置き新屋は無くなっていたのです。元本家の家だった為、江戸時代から続く草ぶきの家であり初代は勿論、先祖はこの家から産まれていたのでどの様な家であったのか非常に知りたかったです。
戦災が酷かった地域ですので写真が残っている可能性は絶望的ですが、調べてみる価値は十分にありますね。

にしても転籍を繰り返されており、当時は東京府荏原郡東京市大森区、東京都大田区と名称が変わった事もあり、地番も4桁~3桁の数字のもので、大正・昭和初期の地図を細かく見ても当てはめるのが大変な作業です。土地の移り変わりについてはまだ整理しきれていない為、これから作業していく予定です。






しかしながら、この調査は無事努力が実った結果になりました。探し人が人柄が良く、いい関係性を築け、新たな情報を得ると共に貴重な繋がりにもなりました。ルーツ調べをして一番うれしい瞬間です。
遠縁ながら当家に来ていた親族の方なので、何とも不思議な気持ちです。
今後も定期的に調査や旅行等のお話をしにお邪魔したいと思っています。